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『著作集11 フィールドノートⅠ』(2001)の編集を担当したのは、民俗学の森本孝(1945-)である。森本は、『著作集12 フィールドノートⅡ』(2004)の編集も担当し、解説「〈歩く学問〉の原点へ」を書いている。良行が1994年に亡くなってからの約10年間、森本は良行の遺したフィールドノートに取り組んできた。著書に『船と港のある風景 日本の漁村・あるくみるきく』(農文協、2006)がある。この書名は、良行が生前に執筆を予定していたものであった。 「鶴見さんはある出版社と、自分の歩いて見てきた船や港の物語を書く約束をしていたという。書名も『船と港のある風景』と決まっていた。しかしその約束を果たせぬままに、鶴見さんは遠い世界へ旅立ってしまった」(『船と港のある風景』p.387、農文協、2006) 良行が書こうとした書名の本を森本が書いた。『船と港のある風景』を担当した編集者は、郷雅之である。彼は「著作集全12巻」を担当した編集者でもある。 森本は、民俗学者・宮本常一(1907-81)が創設し主宰した日本観光文化研究所に所属していた。研究所から刊行されていた雑誌『あるく みる きく』の執筆・編集を担当していた。 宮本の業績を編集整理する作業は、現在も周防大島文化交流センターで森本らによって継続されている。周防大島文化交流センターは、宮本の業績を集成展示する博物館でもある。 森本の他にも『著作集11』に取り組んだ人たちがいる。そのひとりに、Ⅰ章の注釈を担当した赤嶺淳(1967-)がいる。著書に『ナマコを歩く 現場から考える』(新泉社、2010)がある。本の題名から良行の『ナマコの眼』(1990)の舞台を辿った内容と思う人がいるかもしれない。そうではなくて、新たな視点で書かれたナマコ本である。 「わたしがナマコに関心をもったきっかけは、どことなく牧歌的なイメージのつきまとうナマコ漁からは想像もつかないほどに壮絶なマンシ島のナマコ漁を目にしたことにある。(中略) マンシ島のナマコ潜水漁では、両者(キリスト教徒とイスラーム教徒=引用者註)の力関係が逆転しており、イスラーム教徒のサマ人たちがキリスト教徒のビサヤ人たちを『搾取』しているといえなくもない状況に、わたしは圧倒されたのであった」(赤嶺淳『ナマコを歩く』p.347、新泉社、2010) 2014年より赤嶺は一橋大学大学院社会科学研究所で教授を務める。東京に赴任するまでは、名古屋市立大学で准教授をしていた。名古屋時代に学生たちと取り組んだ研究が、離島・隠岐(島根県)での住民からの聞き書きの記録である。とりわけ興味深いのは、『海士(あま)伝2 海士人を育てる(聞き書き)人がつながる島づくり』(新泉社、2014)という本である。日本の離島で街づくり(島づくり)に取り組む島根県隠岐郡海士(あま)町の住民たちと共同でつくりあげた本である。それを読むと、なぜ海士町が日本で一番元気な漁村であるのかの理由が分かってくる。その聞き書きプロジェクトに、赤嶺は指導者という立場で参加した(p.205)。 海士(あま)町住民への聞き書きは、当時の赤嶺ゼミ(名古屋市立大学)所属の学生・院生たちが担当した。この研究企画は、「おきひやく」プロジェクトという名称で開始されている。「隠岐の100人」=「おきひゃく」という意味である。隠岐の島の100人の個人史を20年にわたって聞き取って記録するという構想である。 2014 年の聞き書きに参加した23名の学生たちの成長の記録が、本の中に残る。成長の質(内容と意味)は様々だが、中国からの留学生たちの変化を含め、個人の成長と変化の多様性が、その豊かさを物語っている。 このナマコ本の10年前に赤嶺が取り組んだのが、『著作集11 フィールドノートⅠ』のⅠ章の注釈であった。この注釈作業は、困難な作業であった。というのは、「フィールドノート」の始まりとなるこのⅠ章は、私的な旅行日記が入り混じる「旅ノート」であったからだ。良行の「フィールドノート」は、1982年9月に始まるが、当初は第三者に公開することを想定していなかった。 ところで、『著作集11』には『辺境学ノート』(めこん、1988)が収録されている。後半のⅣ章、Ⅴ章である。単著では4章構成だが、『著作集11』ではⅣ章、Ⅴ章の2章に改編されている。内容に大きな変更はない。『辺境学ノート』は、出版社めこん社長・桑原辰により企画され、当時めこん社員であった藤林泰が編集を担当した。内容は公開を前提とした「フィールドノート」である。 良行が「フィールドノート」の公開を意識してノートを書くようになったのは1983年からだ。記述の方法における試行錯誤は、Ⅰ章からⅢ章までのプロセスに残る。とりわけⅠ章には、記録のスタイル(方法と文体)の試行錯誤がうかがえる。それゆえにⅠ章の注釈作業には特別な困難さがあった、と思われる。 しかし、この注釈作業を通じて、赤嶺は良行の世界に深く分け入ることができた……。のちに東南アジア学の領域で次々と意欲的な作品を書くことになる赤嶺だが、その原点は『著作集11』Ⅰ章の注釈作業にあったといえるのではないだろうか。 |
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