『著作集6バナナ』(1998)は、『バナナと日本人』(岩波新書、1982)を中心に編纂されている。
全12巻で最初の刊行がこの第6巻「バナナ」であった。刊行順序については、当初から編纂者たちに合意されていたらしい。その事情を編纂委員5人のひとり村井吉敬が「解説」で書いている。
「鶴見良行著作集の刊行は、この第六巻『バナナ』から始まる。ゆえなきことではない。鶴見の作品群のなかでも、もっともポピュラーに読まれ、社会的影響力の大きかったのが岩波新書『バナナと日本人──フィリピン農園と食卓のあいだ』だったからである。私を含めた本著作集の編集委員たちも編集者も千代子夫人も『バナナ』から始まることに何の疑問も呈さなかった」(村井吉敬「バナナから始まる著作集」『著作集6』p.296)
そのあと村井は、「解説」を担当することへの「ためらい」に触れている。
「ただ、この巻の解説を私が書くことにはややためらいがある」(p.296)
良行が主催した「アジア勉強会」(1972−80頃)の参加者でなかった村井吉敬が良行の共同研究者となる。そして、『バナナと日本人』に続く『エビと日本人』(岩波新書、1988)を執筆した。さらに『著作集6』の巻末解説を書くことになった。そのことへの「ためらい」である。村井の「ためらい」への解釈は、関係者によって異なるかもしれない。ひとこと私見を述べるならば、「運動としての勉強会と、共同研究とは異なる」ということ。参加者たちはその成果を本にすることに目標を置いていなかった。また研究が目的でもなかった。現地の人々との関係の変化や発展を優先した。市民運動としての勉強会は、あの時代の文化であった。
『バナナと日本人』のなかに、良行自身の南池袋から武蔵境への転居(1979)に触れた文章がある。 「いま住んでいるところに引越しするとき、私は一度だけ、銀行からごく短期間、カネを借りた。幸い、前に住んでいたところ(南池袋のマンション=引用者註)が売れたのですぐ返そうとしたのだが、銀行は、もっと長いあいだ借りていないかと勧めた。だが、そこより金利の安いところがあれば、借り代えるという方法もある。つまりカネそのものに市場原理が働く」(『著作集6』p.85)
銀行からの借金を返そうとした良行に銀行は、「借りたままにしておいたほうが良い」と対応した。 このように自らの経済事情を語ることは、良行にとってまれなことだった。家計や家族・親族関係について語らないのが良行のスタイルだった。この点、自らの家族や親族について多く語り残した従兄の鶴見俊輔と異なる。
銀行ローンの話は、『バナナと日本人』のなかで特別な意味がある。
日本に輸出するバナナを生産する農民は、ほぼ全ての家族が農園会社から借金して暮らしている。株式会社としてのバナナ農園が生産農民の家族に必要なお金を貸し出しているのだ。「金利の安いところから借り換える」ことができる日本の市民と異なり、バナナ生産農民は、借金する相手を選ぶことはできない。バナナの買い取り価格の決定にも参加できない。そのうえ10年間という契約を強制され、移動の自由を奪われる。雇い主の農園が使う農薬使用を拒否もできず、その農薬代金は栽培農家に請求される。日本で1キロ約250円で売られているフィリピン・バナナだが、生産者に支払われる金額は10%以下である。いっぽうでバナナ農園の株主は、株の額面の約10倍の配当を受けることもある。主要な株主は、アメリカ在住の米国人である。
良行の銀行ローンの話はバナナ農家の負債問題とつながっている。自らの銀行ローンについて書いたのは、バナナ農民が背負う農園会社からの借金(ローン)と比較するためであった。良行が自宅の購入に際して銀行ローンを借りたとき、銀行を選ぶことが出来た。しかし、バナナ農家は、所属する農園会社からしかお金を借りることができない。その他の自由も奪われ、「奴隷状態」にある。その実情を伝えるため、良行は『バナナと日本人』を書いた。
『バナナと日本人』の第6章「契約農家の『見えざる鎖』ふくらみ続ける借金」(『著作集6』pp.80ー97)では、バナナ生産農家の経済事情が報告されている。表向きは世帯あたり約7ヘクタールの土地を所有していても、バナナを日本に出荷する会社との「契約」で、栽培方法や土地管理の全てを会社が支配する。そして会社は自らの警察まで持つ。武装して組織されたガードマン(私兵)たちである。彼らに監視され、「夜逃げ」できないように見張られている。
「年にヘクタール当たり三〇〇〇ペソの収入は固い、といって誘われた。それなら一二ヘクタール持っている自分は、年収三万六〇〇〇ペソになるなと計算して、その気になった。土地を貸さないか、という話もチェカード農園からあったが、それより自分で栽培農家になろうと考えた」(『著作集6』p.81)
この話は、良行が取材した北ダバオのバナナ栽培農家の話である。農民の話に続いて良行の説明がある。
「農民は土地を貸すか、自分で栽培するか、ふたつにひとつの選択を強いられた。バナナ栽培の土地を一ヶ所にまとめたい企業の側は、こうして選択を迫ったのである」(『著作集6』p.81)
10年の契約でバナナ農業に従事した生産者たちは「一〇年後には足を抜けない借金を背負いこむことになったのだが……」(『著作集6』p.81)。
「農家は自分の土地で栽培したバナナを会社に売り、会社は、技術や肥料、殺虫剤などを提供する。その交換の差額が毎週、農家の懐に入る仕組みである」(『著作集6』P.81)
農家の生活費不足は会社からの借金で賄われる。その借金は膨らむばかりだ。
アメリカ資本の会社が、どうしてこれほど過酷な農場経営をしているのか? 日本の住友商事もダバオにバナナ農園を所有するが、先行企業のアメリカ企業に倣っている。南北戦争(1861−65)で奴隷解放した米国だが、米国資本の株式会社がフィリピンで奴隷制のような農園経営をしてきた。その理由について、良行はあえて問うていない。事実を提示しているだけだ。
米国では個人の大地主による奴隷制度は廃止された。しかし、株式会社による農園経営は継続されてきた。農業法人として株式会社が労働者と契約書を交わして働かせた。奴隷制は、形を変えて存続してきたといえる。農業法人による農園経営に米国社会は寛容であった。そのために、フィリピンの米国資本による日本向けバナナ農園経営に対しても米国社会では問題とならなかった。働く農民が株式会社の社員であるか、あるいは株式会社と契約書を交わした契約関係があれば、社会的に許容されてきた。
この問題を考えるとき、戦後日本で実施された小作人の解放(=農地改革)が思い出される。多くの小作人たちは地主から無償で耕作地を分け与えられ、自作農となったわけであるが、株式会社で運営されていた大農園で小作人のように働いてきた農民たちは対象とはならなかった。山間地の小作人も国による「解放」の対象にならなかった。山間地の小作制度は、法律でも許容された。
1946年以前、日本の農家の70%は地主から土地を借りて農業する小作農であった。小作料の現物支払いは、収穫した米の半分に達することもあった。農家は地主や高利貸しからの高利負債にあえいでいた。地主が高利貸しを兼ねていたケースもあった。日本の地主と小作人の関係は、現在のフィリピンの日本向けバナナ生産農民と変わらない。
民主的とされたフィリピンのコラソン・アキノ大統領(在任1986−92)は、自分の農業法人で働く農民に「一株」を与えることで生活改善した、と自己評価した。しかし、一株株主になって、農民たちがどれほどの実利を得ただろうか。
「この問題は非常に厄介です。ある意味から言ったら、深刻な問題です。 出版社(岩波書店=引用者註)の地下の会議室で夜明けまで点検したときに、こんな批判が起こったのです。バナナの問題について、こういうことがわかってきたら、鶴見さんは、もっとはっきりと、それについてどうしたらいいかという解決案を書くべきだという議論です。 私は二つの理由から、それに反対しました」(鶴見良行『東南アジアを知る─私の方法─』p.104、岩波新書、1995)
一番目の理由は、「現物に即しながら、しかも、民衆に伝えるというタイプのアプローチは、いまある学問、大学にしても、そこのなかから生まれてきてないからです。─略─
とすれば、私がそれをつくったということだけで、ある種の運動的な効果になっている。生まれていないことに対しての、私の現状批判になっているわけです」(前掲書、p.104)
第二の理由は、「私が─中略─ 解決策を出すとすれば、批判運動ではなくて、実体的な運動にかかわることになります。─中略─ 私はそういうふうに上に立って、人に指令を与えるような形の運動は、あまり好きではありません。─中略─(解決策は=引用者註)読者のなかから生まれてこなければいけない」(前掲書、p.105)
現在、インターネット上には『バナナと日本人』への書評や感想が数多く掲載されている。「バナナは食べるが、面倒なことは考えたくない」という意見や「どうすれば日本向けバナナの生産農家の生活改善ができるのか」という意見もある。しかし、フィリピン・バナナの消費者である日本の市民には、バナナ問題の当事者であることへの意識が薄い。
消費者もバナナ問題の当事者であるということ──。良行が語っていたのは、そのことだった。
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