第3巻「アジアとの出会い」の時代(2)───


 鶴見良行の監訳・解説による、レナト・コンスタンティーノ『フィリピン・ナショナリズム論(上・下)』(井村文化事業社刊、勁草書房発売)は1977年に出版された。翌78年には『フィリピン民衆の歴史1,2』が同じ井村文化事業社から出た。「フィリピン双書」シリーズとしてコンスタンティーノの著作が翻訳出版されたことによって、東南アジアの哲学や文学が知られるようになった。
 井村文化事業社は、勁草書房社内の別会社である。赤字覚悟の事業社を設立し、「フィリピン双書」の出版事業が開始された。この決断は、当時の勁草書房社長・井村寿二(1923-88)による。形式的には2代目社長だが、実質的な創業者であった。 井村は金沢医科大学に学んだ。医学部出身の編集者であった。出版社としての勁草書房が軌道に乗るのは、羽仁五郎『都市の論理 歴史的条件─現代の闘争』(1968)のミリオンセラー化だった。『都市の論理』はその後、講談社文庫(1982)に収められている。
 井村は多くの書き手を育てた。なかでも羽仁五郎(歴史家、1901−83)と良行は、井村なくしては現在のような存在になりえなかったと思われる。

 1974年に良行が企画した「アジア会議」を、井村は自らの出身地・金沢市に誘致して後援した。井村は金沢の老舗企業の役員でもあった。これが「アジア文化交流金沢会議」となった。会議の記録は、鶴見良行編『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)としてまとめられた。勁草書房の井村が、講談社の新書をプロデュースしたということになる。(参照=「井村寿二と鶴見良行」については、すでに『文庫・新書でふりかえる鶴見良行の世界』、第3回『アジアからの直言』に書いている)
 その「アジア文化交流金沢会議」では、東南アジア5カ国とアメリカ、日本からの約30人の知識人たちが集った。4日間、寝食を共にした。参加者たちは、金沢市の繁華街・香林坊(地区名:こうりんぼう)に宿泊した。当時、香林坊にマレーシア料理店「パルパティ」があった。「パルパティ」は現在、2代目店主の下でインド料理店として営業している(「パルパティ」金沢市片町2丁目8-18)。
「パルパティ」初代店長は、JICA(国際協力機構)青年海外協力隊隊員としてマレーシアの職業訓練校に講師として赴任した経験があった。ここでは、O(オー)さんと呼ぶ。Oさんは、派遣前の語学訓練を英語で受けた。しかし、現地に赴任すると訓練生たちは、英語の講義が聞き取れなかった。そこでOさんはマレー語で講義することにした。マレー語を学び、マレー語で講義ノートを準備した。そのようにして、マレー人の世界に入っていった。やがて、マレーシア料理の世界と出会う。マレー人のマレー料理とインド・タミル料理が融合したマレーシア半島の料理であった。半島マレーシアには、イギリス植民地時代にゴム園労働者として移民してきたインド・タミル人が、華人に次ぐ第三の民族として生活している。

 金沢市の「パルパティ」の創業者Oさんの時代、金沢市の古本屋から東京の鶴見宅に古本を送っていたひとたちがいた。「パルパティ」に通う人たちである。時期は、1974年6月のアジア人金沢会議から1976年10月のタイ軍事クーデターまでの2年余りのことだ。『マラッカ物語』(時事通信社、1981)には、金沢市の古本屋から入手した文献が約50冊利用されている。空襲のなかった金沢市には、戦前・戦中のアジア関係本が数多く残されていた。1970年代、金沢の古書は、京都大学東南アジア研究センターが古書店を回って大量に買いつけていたものだった。
『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)の能登半島調査ても、金沢ネットワークの支援があった。こうした事情を踏まえて、現在の「パルパティ」に出かけてみるとよいかもしれない。店の雰囲気は、大きくは変わっていない。文庫『ナマコの眼』を持ち込み、「パルパティ」の料理を楽しむことができる。在りし日の良行がしのばれるかもしれない。

「パルパティ」は小さなビルの2階にある。1階には伝説の喫茶店があった。小説家・五木寛之(1932-)が無名時代に通った喫茶店である。五木は、その喫茶店に毎日通って同じ席で小説を書いていた。直木賞受賞作「青ざめた馬を見よ」(1987)も、そこで生まれた。時期はずれるのだが、五木と良行が同じビルですれ違っていたことになる。金沢時代の五木は、医師をしていた配偶者の支援を受けていた。良行を支援した勁草書房の編集者・井村寿二は金沢医科大学出身であった。そこに共通する物語があったのでは?と想像することは楽しい。(井村の医科大学時代の友人に、社会学者・上野千鶴子(1945−)の父親(医師)がいた。その縁で上野は、勁草書房から本を何冊か出している)

 井村寿二は、自身について多くを語っていない。しかし、勁草書房4代目社長・井村寿人(1958−)は、社のホームページに多くの話を掲載している(けいそうビブリオフィル)。彼は1970年代終わりから80年代はじめにかけて、フィリピン・ネグロス島にあるシリマン大学に学んだ。首都マニラ周辺の大学でなく、地方の大学に留学した日本人は、当時珍しかった。
 良行がフィリピンに取り組んでいた同じ頃に、フィリピンに取り組んでいた編集者・井村寿二とその息子・寿人がいたということだ。良行と勁草書房の物語を書き手側から眺めるのは、不十分である。出版社、編集者の側から勁草書房・井村文化事業社の「フィリピン双書」を読みかえせば、新しい発見があるかもしれない。

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