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『マラッカ物語』(時事通信社、1981)に「ナマコ考」と題した一節がある。第二章「海に生きる人びと」の第三節である(『著作集5』pp.73-81)。以下のような書き出しで始まる。 「『マラヤ編年記』には、マラッカ王朝の祖スリ・トリ・ブアナが、リオウ島からシンガポールへ移動する途中の浜辺で野立ちをする光景が描かれている。魚、貝、海草、なまこを浜辺で拾い、海岸でゼリーを作り、なまこは生で食べた」 「ナマコ考」は、単行本では12ページ、『著作集3』では9ページと短い。しかし、そこには19年後の『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)の全体像が示されている。 『マラッカ物語』(1981)の取材は1974年に始まった。その頃にナマコ研究も開始された。その後、『マングローブの沼地で』(朝日新聞社、1984)と『海道の社会史』(朝日選書、1987)が出た。それらの執筆時期にも、ナマコ研究は継続していた。ナマコに関連する記述に出会うたびに読書カードに記録してファイルした。生涯4万枚を超える読書カードを残した良行であったが、そうした蓄積を経て、『ナマコの眼』は書き上げられた。良行は『ナマコの眼』を書くために他の単著を書いてきたのではないかと私は思うことがある。 『著作集9 ナマコ』(1999)は、『著作集6 バナナ』(1998)に続いて刊行された。『バナナと日本人』、『ナマコの眼』の2冊を代表作として企画された発刊順である。表紙帯に次の文章が載る。 「奇妙で魅力的な生物・ナマコの眼(まなこ=ふりがな)から見えてくるアジアと日本の多様な交通の記憶──悠然たる筆致で、海の民たちの〈もう一つの世界史〉を描いた壮大な叙事大作『ナマコの眼』と関連エッセイ。」 『著作集9』の表紙には良行の撮った写真が使われている。 「スルー・シタンカイの海上で、ナマコを突くお婆さんと子ども(一九八七年三月)」の写真である(『著作集9』「目次」あとの写真解説)。 いっぽう、単著『ナマコの眼』の表紙写真には、南スラウェシ、バジョエ村でのナマコ加工の光景写真が使われている。女性がドラム缶を前にナマコを湯掻く姿が写る。 単著の表紙裏上の写真は、収穫した生のナマコを船の上で茹でる女性が斜め後ろから映る。周囲に水遊びに興じる6人の幼い子どもたちが見える。船上でナマコを茹でる女性とは別の船から手を差し伸べる5歳くらいの女の子が正面に写っている。4枚の写真を並べて見ることで、「ナマコの眼」の世界が映像として浮かぶ。 そんな「ナマコの眼」の世界だが、物語は東京・武蔵境市にあった良行の自宅から始まる。東南アジアを旅して持ち帰ったナマコを自宅で様々に料理する様子が細かく描かれている。 「『ナマコを戻すには稲ワラを入れればいいんだ』と私は日本各地で聞かされてきた。試してみたがそれほど効きめがあるようには思えなかった。ナマコを戻して食べる習慣がある土地では、市場で戻したナマコを売っている。加工の専門業者と同じく戻しの専門業者がいるのである。これまで調べたかぎり、戻し売りが見られたのは、バンコク、マニラ、中国の各地、朝鮮半島各地である。もっと調べればこの範囲は広がるに違いない。職業的な戻し屋は、何らかの薬品を使っているようだ」(『著作集9』p.12) 良行のナマコへの思い入れは、料理から始まる。第1部Ⅰ節「台所の実験」は、体験的ナマコ料理の記録である。その書き出しに、社会科学の本を想定して読み始めた読者のなかには、失望した人がいたかもしれない。しかし、良行のナマコへの取りくみは、大真面目であった。 「私がナマコに凝っていると知って情報を寄せてくれる友人は多い。本年、わが家の新年会には、スルー、バンコク、韓国のホシナマコが運ばれてきた。それに今宵のような飲み屋の出逢いもある」(『著作集9』p.14) 「飲み屋の出逢い」とは、武蔵野の片すみにある飲み屋での出来事である。店主は東南アジアに凝り、タイ風ラーメンなどを作っている。週に一度、教師を招いてタイ語教室まで開いている。その店で良行はパラオ出身の女性と出会い、ナマコについての講義を受けた。その内容についても、詳しく書いている(『著作集9』pp.15−21)。 彼女は講義のあと、次のような言葉を良行に残した。 「海の底でナマコはあなたを見るのよ。They'll notice you!」(『著作集9』p.16) 「ナマコの眼」という標題は、武蔵野の飲み屋で講義を受けたパラオ女性から得たものかもしれない。 Ⅲ節では「真珠とからゆきさん」が続く。ボルネオのサンダカンで働いたからゆきさんについて、良行はいくつかの著作に分散して書いてきた。それらは、からゆきさん研究への連帯でもあった。『マングローブの沼地で』の第Ⅲ章「ボルネオへ」の第4節に「サンダカンのリサール」がある。そこでは、鶴見アジア学とからゆきさん研究の接点について書いている。そうした良行の書き方は、日本の大学院では「まねをしてはいけない」と院生が教員から指導されるような書き方である。自由に書くことが、良行の信条であった。 さて、「真珠とからゆきさん」では、熊本県・天草出身のからゆきさんと日本からの移民漁師との関係に触れている。 「からゆきさんの伝統は、(中略)漁民の進出よりはるかに古く、近世初期にまでさかのぼる、彼女たちは、九州天草の貧農の子女だった。しかし、からゆきさんが漁業とまったく無関係だったとはいえない」(『著作集9』p.31) ボルネオ島東部のサンダカンをはじめ、バタビア、シンガポールなどで、からゆきさんたちは働いていた。それらの地には日本人漁民が漁獲を陸揚げする市場があった。からゆきさんの進出と日本人漁民の移民は連動していた。 からゆきさん研究など他の研究分野との接点を書くとき、とりわけ良行は慎重に取り組んだ。それは、第一部第4節「クック船長の赤い羽根」にも伺える。キャプテン・クックとして知られるクック船長は、一般にも知られる存在である。しかし、ホシナマコを扱ったはずのクック船長らの記録は残されていない。研究もされてこなかった。その課題は、良行の研究テーマとなる。こうした課題について、良行は次のように書いている。 「学問が研究領域を限定しなければならないことはよくわかるが、その分割の仕方は、あまりにも西洋近代の理解にとらわれ、植民地になった島々が独立してくる近々二〇〇年ほどの歴史に沿いすぎてはいまいか」(『著作集9』p.38) 18世紀、真珠やナマコの採取地・ダーウィン周辺で新しい言語が生まれた。ナマコ語である。 ナマコ語(メラネシア・ピジン語)については、第1部Ⅴ「マニラメンとナマコ語」にも書いている。マニラメンとは、フィリピン出身の漁民たちの当時の現地での呼称である。マニラメンは、真珠やナマコを採る漁業の中心にいた。そのフィリピン人をはじめ共に働いていたインドネシア人、ニューギニア人、オーストラリア人の間に生まれた共通語が、ナマコ語である。18世紀末頃から使われはじめ、19世紀にはダーウィン周辺からニューギニア島周辺に至る海岸部に広がった。 ナマコ語は、多民族間の労働と交易の場で自然に生まれた。英語の単語を使い、インドネシア語の文法で文章をつくった。 以下に簡単にナマコ語文法を解説しておく。 Mi Japani(私は、日本人)となる。 Be動詞は、使わない。Miは、I、My、MeのMeがMiとなった単語である。 You come yesterday.(あなたは、来た、昨日)となる。 動詞の時制変化は、ない。時を表わす副詞で、現在・過去・未来を表現する。 話し言葉が先に生まれたナマコ語である。英語文字で書かれるようになったのは、20世紀になってからだ。 ナマコ交易で生まれたナマコ語は、現在メラネシア・ピジン語(ピジン英語とも呼ばれる=筆者註)としてメラネシア地域の共通語として機能する。パプア・ニューギニア、バヌアツ、ソロモン諸島、フィージーに及ぶ言語使用の広さは、ヨーロッパの広さに相当する。 ニューギニア島の東側に位置するパプア・ニューギニアには、800を超える民族語が現在も話されている。そんな多言語社会の共通語がナマコ語である。ソロモン諸島の島嶼部でも、各島で言語が異なる。島嶼部の共通語としてナマコ語が機能している。現在のパプア・ニューギニアやソロモン諸島では、テレビやラジオ放送にもナマコ語が使用されている。英語ができなくてもナマコ語ができれば、安全に旅が出来るのが、メラネシアである。 ナマコ語(メラネシア・ピジン語)の普及は、20世紀になって急拡大した。その契機のひとつは、ニューギニア東部(現在のパプア・ニューギニア)の山岳民族たちが、オーストラリア東海岸ブリスベン周辺のサトウキビ畑で働くようになったことだ。言語の異なる山岳民族たちのあいだでナマコ語が共通語となった。それまで沿岸部で使われていたナマコ語が豪州のサトウキビ畑を経由してニューギニア島東部の奥地にまで普及したというわけだ。同時に、沿岸部では国境を越える言語となり、メラネシア全体に普及して、現在に至っている。 |
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