第11巻「フィールドノートⅠ」を読む(3)


 最後に、『著作集11』の巻末解説を書いた内海愛子について書いておきたい。
 内海愛子(1941-、恵泉女学園大学名誉教授)と私は日本平和学会などの会合で何度かすれ違ったことがある。共通の知人は数人いる。そのひとりに、梶村秀樹(1935-89、神奈川大学教授)がいた。
 梶村は、私の朝鮮語の先生である。1970年10月東京・南新宿(代々木)にあった民家で朝鮮語を教える現代語学塾が開講した。その1期生として私は、梶村から朝鮮語を1年間学んだ。
 梶村秀樹は、「旅をしないアジア学者」であった。朝鮮史の研究者であるが、韓国にも北朝鮮にも行かないことを課していた。「旅することだけが、学ぶ方法ではない」と梶村から私は学んだ。その私が最初の海外旅行に選んだのは、関釜フェリーでの1週間の韓国旅行である。20歳の夏、1971年8月15日をソウルで過ごすために出かけた。釜山からソウルへは、夜行の座席列車に乗った。以来、私は10回を超えて韓国に出かけている。そのたびに思い出すのは、「韓国にも北朝鮮にも行かない」と言っていた梶村のことである。
 梶村秀樹『朝鮮史 その発展』(講談社現代新書、1977)は、朝鮮の概略史である。古代日本には先進文化をもつ多数の朝鮮人が渡来して日本の古代文化、国家形成に重要な役割を果たした。日本は明治維新を成し遂げて近代国家となった。先に近代国家の体裁を整えた日本が、朝鮮を植民地とした。
 現在の研究者たちから批判されることもある梶村史観だが、梶村が用いた「自立的、内在的発展」という歴史概念は、鶴見和子(1918-2006、上智大学名誉教授)の『内発的発展論の展開』(筑摩書房、1996)に受け継がれている。鶴見和子は、良行の父方の従姉にあたる。

『朝鮮史 その発展』が一般書として出たことで、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(勁草書房、1982)の出版に道を拓いた、と私は思っている。1970年代、朝鮮史研究書が一般向けに世に出る日本社会ではなかった。梶村の業績は『梶村秀樹著作集全6巻+別巻』(明石書店、1990-93)としてある。朝鮮史研究者が極めて少数であった時代に研究していたのが梶村であり、内海愛子であった。
『朝鮮人BC級戦犯の記録』は、第二次世界大戦中に東南アジアの捕虜収容所での捕虜虐待をめぐり、戦犯とされた朝鮮人の元日本軍兵士に焦点をあてている。
「いわゆるA級戦犯として絞首刑になった日本人が七人、それに比べて、二三人の朝鮮人がBC級戦犯として、絞首刑・銃殺刑に処せられている。台湾人の場合は、二六人が戦犯として処刑された。なぜ、旧植民地の人々に、日本の戦争責任が転嫁されたのか。朝鮮人戦犯の存在が、しだいに、私の心に重くのしかかってきた」(前掲書、「はじめに」p.1)
 第二次世界大戦中の東南アジアでの捕虜収容所については、タイ(泰緬鉄道)、マレー(石油基地パレンバン)、インドネシア(ジャワ)の3カ所の実態が、前掲書(1982)のなかで詳しく分析されている。彼ら朝鮮出身の軍属が捕虜監視要員として直接に連合軍の捕虜たちと接したことで、より重い戦犯とされた。彼らに命令を下した日本軍将校たちのなかには、軍属の監視要員よりも軽い罪となった者もいた。戦争犯罪をめぐる裁判の実像は、そのようなものであった。朝鮮人BC級戦犯148人のうち捕虜収容所関係129人。インドネシアの捕虜収容所に収容されていたのは、オランダ軍の兵士たちである。オランダ人たちは、自分たちを身体的に迫害した朝鮮出身の日本軍軍属たちを許さなかった。 現在、『朝鮮人BC級戦犯の記録』(1982)は、岩波文庫(2015)となっている。400ページを超える分厚い文庫である。

 内海愛子の新作『スガモプリズン 占領下の「異空間」』(岩波新書、2025)が刊行された。同名の旧著の書き直しであるが、新たに仕上がっている。語られることの少なかった巣鴨戦犯刑務所の全体像が分かりやすく描かれている。その一つに、外地の戦犯捕虜収容所から巣鴨刑務所に移送された朝鮮人戦犯捕虜の存在がある。第四章「プリズンの『異邦人』植民地支配と戦争裁判」には、インドネシアからスガモへ移送された朝鮮人戦犯が登場する。
 その第1節「日本人ではない日本の戦犯」には元朝鮮人軍属たちの生き方が描かれている。彼らの一部は、1954年11月に裁判所から仮釈放の通知が届いたとき、スガモ刑務所からの出所を拒否した。何の保証もなく日本国籍を剥奪され、出所後2週間以内に「外国人登録」をしなければならないとされていた。しかし、住所が決まらなければ登録もできない。そのような条件での出所は、拒否するとの要求書を出した朝鮮人がいた(pp.169-170)。
 歴史記述の中に無名の人々が登場する内海史学は、1980年代までの日本の歴史学会では、少数者の学問とされてきた。しかし、現場に生きた人々を記述することで、国家の歴史がより相対化されることに読者たちが気づいた。そうして、一般読者の支持を得るようになってきたといえるのではないか。

 歴史社会学者・内海愛子は、大学院での研究に区切りをつけ、1974年インドネシア・ジャワ島のバンドンにある国立パジャジャラン大学文学部に赴任、日本語講師として2年間教えた。その間、配偶者・村井吉敬(1943-2013、上智大学教授)と共に暮らしたのが、バンドンの下町である。当時、山の手の高級住宅街に住む日本人たちからは、「近づかないほうが良い」と言われていた地域であった。内海たちの借りた低所得者居住地域の住居には、大学生ら地元の若者の出入りも多かった。その環境のなかで内海と村井は、生きたインドネシア語を身につけた。 彼らのインドネシア語は、後にインドネシア東部の島じまを良行らと共に旅するなかで生かされている。
『著作集11フィールドノートⅠ』(2001)の第Ⅲ章「サバ、スラウェシ、テルナテの旅」、第Ⅳ章「スラウェシ、カリマンタンの旅」、第Ⅴ章「アンボン、アル諸島の旅」の記録の中に、同行した内海らと良行との議論が記録されている。宿泊場所の安ホテルや食事をとる食堂も共にする旅だった。調査地の村への旅もほとんど行動を共にした。そんな彼らだが、10日に1日は個人で動くというルールを設けて旅の視点を各自で見直した。

 内海は、日本平和学会会長(17期、2006-08)を務めた。内海会長の前任(16期、2003-06)は、村井であった。良行は、日本平和学会に1973年の創設時から学会員として参加していた。
 創設当時の日本平和学会は初代会長・関寛治(せき・ひろはる、1927-97、東京大学名誉教授)である。学会理事に名を連ねていたのは、国際政治学研究者たちであった。1970年代、市民による平和運動を前面に押し立てた学会の運営を良行は主張していたが、大勢となることはなかった。
 やがて日本平和学会にはアフリカ研究者やアジア学者たちが陸続と参加するようになってくる。そして学会創設から約30年を経て、村井や内海が日本平和学会の会長を務める時代となった。内海、村井、良行のアジア学は、「平和学としてのアジア学」でもある。


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