ムハンマド・アリー公『日本紀行』
『日本旅行記』(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著 

 ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅)
 ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎)
 ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎)

 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)はオスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版を翻訳したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。
【東京】編
桜田門外諸官省(『東京名所写真帖』尚美堂・1910年)

 ここ(東京)はこの国の首都である。住民の数は180万人(1)に達する。古くからの都市だ。日本の知られるところの歴史は、およそ紀元5年(2)からである。
 そこにはミカドがいた。日本の南のほうの地方だ。人々はミカドのことをたいそう敬っていた。というのは、ミカドのことを神の息子であるとみなしていた。
 最初、彼らの宗教は仏教であった。それは朝鮮から伝わった。
 紀元185年(3)、アメリカ合衆国とのあいだで事件と問題が巻き起こった。アメリカがこの国に艦隊を派遣し、攻撃したのだ。この一件が彼らにとって教訓となった。近代化とその準備はもう避けられない道であることがあきらかとなったのだ。その後、ミカドはドイツ憲法をモデルにした憲法を国民に与えた。
 日本は少しずつ進歩発展していった。そしてかなりの段階に達したのだった。今ではその進歩と開明の度合いは列強国と並び称されるようになった。
 この急激な発展とその成果は、紀元1894年の中国(清)との戦争以降、ヨーロッパに対してはっきりとあらわれたといえる。
 1899年、いかなる国の出身者であれ、この国に居住するすべての人々にこの国の法律が効力を持つようにすることを日本政府が諸外国に求めたとき(治外法権撤廃の交渉=訳者註)、彼らの抵抗の激しさとその国力からすれば、ヨーロッパはそれを受け入れざるを得なかったと思う。
 東京に大使館をもつ国は、英国、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、デンマークなど、ノルウェイは領事館を一つ、さらにロシアと中国といったところである。
 郵便と電信の部局は、大きなビル内に置かれている。

 この首都には四つの大きな庭園がある。「芝」「上野」「浅草」「日比谷」である。そして軍事博物館、商業博物館(4)、それ以外にも偉人たちや資産家たちに所属する博物館もある。公共の帝国図書館や、また英国やアメリカの教会、またカソリックの教会もある。これらの教会はすべて大使館に近いヨーロッパ人地区にある。
 彼らの商売のほとんどは、銅製品の製造であったり、銀細工であったり、絹織物など、そしてそれらの素晴らしい仕上がりの縫製であったり。また象牙や紙でつくられた扇子、シルク、多彩な色づかいの絵柄や、奇妙な形のオブジェに、驚くべき絵画、そのほかにも数えきれないほどの品々……。
(1)180万人|1903年の統計によると、東京市(15区)の人口は1,818,655人。ちなみに日本の総人口は約46,732千人。(参考=『明治大正国勢総覧』)
(2)紀元5年|あきらかな間違い。5年ではなく5世紀?
(3)紀元185年|おそらく誤植であろう。1853年の「黒船来航」のこと。「攻撃」はなく、空砲での威嚇であった。
(4)商業博物館|当時、貿易促進を目的に物品を収集・陳列して公開する施設として、商品陳列所、商業博物館、輸出商品陳列所といったものが存在した。陳列だけではなく販売所として内外のさまざまな物品を取り扱った商業施設に勧工場(かんこうば)と呼ばれるものがあった。現在のショッピングセンターのようにディベラッパーが開発した建物に多くの小売店が出店したもの。下の写真は「南明館」という勧工場。1899年小石川通りに開業。店舗数は37。
 午後、我々がホテルに戻った時、たくさんの人々が待機しているのが見えた。何を待っているのか尋ねたところ、この日は皇后の59歳(5)の誕生日だそうで、彼女が散歩に庭園へ出てくるという。これら見物人たちのそばを通過するというので、我々も20分待って行列を見物した。
 行列の先頭は、一人の騎馬警察官であった。彼の姿を認めると、見物人たちは皇后がまもなくやってくると察した。車や馬に乗っている人たちはそこから降りて、またそれ以外にも、椅子に座っている人たちは立ち上がって、それぞれが皇后に対して敬意をもって不動の姿勢を保った。
 ヨーロッパ風の衣装を身に着けた従者が馬に乗ってやってきた。その後ろには槍を持った4人の兵士がつづく。彼らの中央には将校がいて、彼は皇室の旗を持っている。
 皇后の乗り物(6)がやってきた。彼女は座っている。彼女の前にはヨーロッパ風の衣装をまとった一人の女性がいる。車の後ろには6人の男たちが徒歩でつづく。
 彼女の車が過ぎると、別の車がやってきた。そこには皇后の従者である三人の女性が乗っていた。そのあとまた別の車がやってきた。そこには警察署長が乗っている。
 皇后は通過するとき、頭をかすかに動かして群衆に会釈していた。
 すべての人々が彼女に対して腰をかがめるような格好でお辞儀をしている。この式典は豪華さと完璧さの点でこれまでなかで最高のものであった。

 この都市の面積は、南北8キロメートル、その幅(東西)が6.5キロメートル、当時の面積は28平方マイル(7)である。この都市はかつて「江戸」と呼ばれていた。もともとの誕生はいわば隣り合った三〜四つの小さな村がいっしょになったものだ。1590年に徳川将軍がやってきて、そこに大きな砦を築き、軍隊を置いた。
 1868年、将軍の権力は剥奪されて、この都市にミカドがやってきた。そしてここを「東京」と名づけ15の区画に分割した。そこには「隅田川」と呼ばれる大きな川が流れている。川には鉄でできた大きな橋が五つかかっている。この川は商業の発展に大いに貢献し、また物流を簡便にしてくれた。

隅田川にかかる吾妻橋 
 天皇の宮殿は「江戸城」と呼ばれていた。その長さは4マイル。1873年に壊され、1889年に再建(8)された。ここに入ることは禁じられている。その城域外の周辺には政府関連の施設が入る大きなビルがある。裁判所であったり、議事堂であったり、さまざまな省庁、印刷局(9)などがある。

 翌日、みんながいいという評判の庭園を訪れようと思った。それは、ほかの地域にあるどの庭園よりもすばらしいといわれる。そこでさまざまな宿屋や商店に立ち寄った。そこにはいくつかの商品が並んでいた。これまでの通訳のふるまいのことを考えると、ここでの通訳にも起こりうるであろうことを思う。それは、いかなる大都市においても旅人が何かを買おうとしたとき、店の人といっしょになって、騙したり、ほんとうのことを言わずに悪だくみをしかけるのだ。結果、通訳は品性下劣で不道徳なものとして知られることになるのだ。
明治天皇の皇后(美子皇后)
(5)59歳|本稿では著者のアリー公の来日は「1909年(明治42 )」として進めているが、明治天皇の后である美子(はるこ)皇后は1849年5月9日生まれとされているので、1909年の誕生日を迎えたその日で満60歳、数え年で61歳となる。1902年(明治35)に「年齢計算ニ関スル法律」が制定されて「満年齢」が正式に採用されているが、一般的には「数え年」がひろく使われていたようだ。しかし、いずれの数え方であってもぴったりこない。2024年東京大学で開催された「中東王室の外交儀礼と日本」というセミナーでは、アリー公のこの「日本旅行記」にも言及があり、そこでは日本訪問を「1906年」と紹介している。またアリー公が大叔父にあたる、(つまりアリー公からすれば大甥の)アッバース・ヒルミー3世をゲストに招いているので信憑性は高そうではある……。本稿が前提とする「1909年」は、上智大学の博士課程留学生Reem Ahmed Saleh Sayed Omar氏の論文「エジプト人の日本発見─日露戦争より戦間期にかけて─」(平成28年度学位論文)による。Omar氏も論文執筆にさいしてアッバース・ヒルミー3世にインタビューしている。59歳が満年齢であれば訪問年は1908年、数え年であれば1907年になる。あるいは「59歳」そのものが間違いということだろうか……。
(6)皇后の乗り物|乗り物はおそらく「馬車」であろう。表記はアラバ('arabah)とあり、一般に四輪車輌のこと。英語ではcarriage。この段落での「車」表記も同様に馬車のこと。明治42年元旦時点で東京に登録されている自動車は38台(そのうち8台が日本製。京橋の自動車製作所でつくられた)であったそうだ。ところが同年8月になると64台に。「自動車熱高まる」という年であったという。参考=加藤秀俊ほか『明治・大正・昭和世相史』(社会思想社、1967)
(7)28平方マイル|1889年(明治22)に東京府の東部15区を区域として東京市が設立。記録されている東京市の面積は約80平方キロメートル。28平方マイルは約72平方キロメートル。
(8)1873年に壊され、1889年に再建|1873年火災により焼失。赤坂御所が仮皇居となった。1888年に明治宮殿として完成され、のちに宮城と改称された。帝国憲法の発布式典はこの建物で挙行された。
(9)印刷局|紙幣、切手、旅券、証券類、政府刊行物などの印刷を行なう。1898年(明治31)大蔵省「印刷局」と内閣の「官報局」が統合され、内閣所管の「印刷局」となる。現在は独立行政法人国立印刷局。

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