鶴見良行私論第2部「炉辺追憶」庄野護

    ◎第2回『東南アジアを知る 私の方法』岩波新書・1995年 (その2)


 鶴見良行は、1971年末にはアジア学研究者としての道を歩み始めている。月1回のアジア勉強会の開始を発表。1972年から始まり、以降数年継続した。勉強会からは、研究者、社会運動家を輩出している。特に、第一回勉強会のメンバーには、井上澄夫(1945-2015、市民運動家。著書に『歩きつづけるという流儀』晶文社、1982ほか)や、津田守(大阪大学名誉教授)などがいた。津田は第1回勉強会に出席したあと、船でフィリピンへ向かいフィリピン大学大学院へ留学している。のちに津田と良行は、フィリピンについての共同研究を本格的に開始した。『アジアを知るために』(筑摩書房、1981)の「あとがき」に、次のようにある。

「関心を共有してくれたT君がマニラにあって、私の調査項目表によって新聞、雑誌類の切り抜きを作成してくれていたことだ。年に二、三回ほどフィリピンに出かけ、その帰途は、リュック一杯にもなる資料を、いかに超過料金を払わずに飛行機に乗せるか苦心した」(p.233)

『アジアを知るために』(1981)の出版当時、「T君」としるし、実名(津田守)を書けなかった。その時代、フィリピンはマルコス大統領の専制政治で戒厳令下にあった。

『東南アジアを知る』の第1章は「フィリピンへ」である。その記述内容は『アジアを知るために』の第2章、第3章、第4章と重なる。第2章「東南アジア地域統合型の工業化」、第3章「フィリピンの国産自動車生産計画」、第4章「保税加工区と国民経済」の3章が、『東南アジアを知る』では第1章「フィリピンへ」として要約されている。

 それらの研究のもとをたどれば、良行の最初のフィリピン研究論文にたどり着く。雑誌『思想』(岩波書店、1977年7月号)に発表された論文「統合帝国主義の展開」である。学術論文として発表された論文だが、『アジアを知るために』では、一般読者向けに書き換えられている。さらに『東南アジアを知る』においては、読者に易しく語りかけるように書かれている。学術論文の形式から抜け出して、文体を変容させている。一般読者に伝える努力を惜しまなかった良行のアジア学の「方法」が伺える。

 良行の文章については、龍谷大学で同僚教員だった中村尚司が次のようにしるしている。
「良行さんの文章論によると、学術論文の文体は、決して美しくない。私は、良行さんのように美しい文章が書けない。多義性の言葉が人間の言語生活の本質であることに気付いているのに、修士論文の指導をするときには、一義性の言語を用いるよう学生諸君に勧める。
 学術論文らしい一義性の言葉と文体になるよう私が添削すると、良行さんは再び元の話し言葉や多義性の日常語に戻すことがある。戸惑うのは学生諸君である」(中村尚司「良行サークルの群像」『思想の科学 特集「歩く学者たち」』1995年9月号、p.94)

『東南アジアを知る』には、1970年代の良行とタイ社会との関わりについて、多くは記載されていない。第2章「マラッカ海峡にて」の調査フィールドは、タイ南部に位置するクラ地峡周辺であった。そこに運河建設の予定があった。良行は、何度もタイ南部に出かけ、『マラッカ物語』(時事通信社、1981)を書き上げている。しかし、その本にタイ社会やタイ国家への記述は、少ない。関係国家を論じなかった理由について、『マラッカ物語』の「あとがき」で次のように書いている。

「変な表現だが、日本がなくてもマラッカは存在したのである。思いきって日本を離れて、先方だけを描いてみたかった」(p.441)
 日本を離れて書かれた『マラッカ物語』には、関係国家としてのマレーシアへの記述も押さえられている。タイ国家を論じないことも同様、タイ国家がなくてもマラッカは存在した。そう言いたかったのだろう。

『東南アジアを知る』で、第1章「フィリピンへ」と第2章「マラッカ海峡にて」のあいだに、タイの研究者、スリチャイ・ワンゲーオ(1995年当時、チュラロンコーン大学準教授。その後、教授に就任)が、コラム「南池袋の部屋で」を寄稿している。2ページ(p.51-52)の小論である。

「鶴見良行さんに最初に会ったのは、そこ(当時は赤坂にあったPARCアジア太平洋資料センター:引用者註)だったと思う。掘削に水爆を使う可能性のあったタイのクラ地峡運河計画のことを『AMPO』(英文情報誌:引用者註)にたいへん詳しく書いているケン・オハラという人物がいたのだが、それがかれのペンネームであることを知った。鶴見さんの足で集めたアジアの知識には舌を巻くものがあり、かれが呼びかけていたアジア勉強会に参加していた同世代の若者たちとも親しくなった。
 南池袋のかれの自宅での集いにも、ときどき顔を出した。狭い迷路のような部屋で、アジアへの日本の経済進出などを話されたと記憶している」(聞き手、岡本和之)

 スリチャイ・ワンゲーオのこの話から28年後の2023年「秋の叙勲」報道記事で旭日賞授賞の外国人叙勲者名簿のなかに彼の名前を見つけた。「スリチャイ・ワンゲーオ 74、国立チュラロンコーン大学教授」(読売新聞2013年11月3日)。1971年から79年スリチャイは東京大学大学院に国費留学し、社会学の修士論文、博士論文を書きあげ、79年タイに帰国している。矢野暢・磯村尚徳共編著『アジアとの対話』(日本放送協会出版協会、1984)にスリチャイの日本語訳論文が2本収録されている。
「『日本製品不買運動』十年後の現実」(p.82-99)
「日本の発展とタイ国の開発問題について」(p.170-205)
 帰国後は、国立チュラロンコーン大学政治学部の専任教員となった。

 1970年代東京でのスリチャイ・ワンゲーオと良行の関係は、スリチャイのタイ帰国後(1979年)も続いた。二人は、直接・間接に連絡を取り合っていた。良行が所属した龍谷大学は、国立チュラロンコーン大学と留学生交換の姉妹校締結をしている。そして、鶴見ゼミの大学院生・赤嶺綾子がチュラロンコーン大学に留学している。赤嶺が龍谷大学大学院博士課程在学中の1993年頃のことだ。赤嶺は、タイ語をマスターし、ラオス語にも通じた。そして、ラオス語の専門家として外務省に採用された(1995年)。赤嶺は、良行の唯一の直弟子である。赤嶺のタイでの成長を見守ったのがチュラロンコーン大学教員・スリチャイ・ワンケーオである。(参考:赤嶺綾子「鶴見良行先生の授業風景」、『思想の科学』1995年9月号「特集 歩く学者たち」p.83-91)

「フィールドノートⅡ」(鶴見良行著作集12)のなかに、赤嶺の留学時代のことが書かれている。
「1992年7月16日 大阪→バンコク
ドンムアン空港で荷物を受けとり両替して外に出ると、赤嶺綾子さんが出迎えにきていた」(p.294)
 このときの良行の同行者は、野上節子(南池袋居住時代の同じアパートの住人)と良行夫人の鶴見千代子。タイ南部への旅であった。

 このあと「フィールドノートⅡ」には、龍谷大学とチュラロンコーン大学の留学生交換事業で、タイ側から龍谷大学経済学部に最初に留学する女子学生ジョイさんについての記述がある。
「龍(谷)大への留学を希望するタイの女子学生ジョイさんとも会った。彼女はチュラ大経済学部4年生で、日タイ経済関係を主題にして、この論文を日本で書きたいのだという。それで龍大の交換留学生を志望したのだが龍大で単位をとる必要はないという。それならよかろうということで、その旨を相手に伝えた。彼女の日本語能力では受講も難しかろう。それに英語で講義をしている科目は現在のところ一つもない。結局はだれかが個人的に面倒を見るよりない。私がその役を引き受けざるを得ないだろうと思った」(p.295)

 日本に留学しようとしていたタイ人学生のジョイさんは、ヨーロッパ製の高級車ボルボを自ら運転して大学に通っていた。いっぽう、タイに留学していた赤嶺綾子は、沖縄の中産階級出身。貧富の差は、明瞭である。このようなちぐはぐさが留学生交換につきまとっている、と良行は書く。「最初のうちは仕方ないだろうと思った」とも書いている(p.296)。日本へ留学にくるタイ人学生のほうが、経済的に圧倒的に豊かである現実を良行は見ていた。「豊かなタイ人学生、貧しい日本人学生」の存在は、1990年代にはすでにあった。

 「フィールドノートⅡ」の「8月9日 ラノーン→プケット」のなかにもスリチャイの名前が登場する。
「スリチャイが、プケットの自然保護の会(Natural Conservation Club)のミス・ムイ(Ms.Mui)に紹介状を書いてくれた。そこに電話を入れたが、女性が出たものの、英語がまったく通じない。フロントに降りて、電話をかけてもらったら、ミス・ムイはバンコクに出かけて、12日まで戻らないと判明。『誰か、マングローブのことが分かる人がいないか』と頼んでみても、そのフロントの女性はマングローブという言葉が分からない。マングローブのタイ語名が明らかになるについては、さらにもう一人の女性の通訳サービスを必要とした」(p.267-268)

 スリチャイ・ワンゲーオ「南池袋の部屋で」は、私をひととき時空を超えた世界へと導いてくれた。


思想の科学 1995年9月
『東南アジアを知る』
岩波新書
1995年11月
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