旧著探訪 (31)

   本屋風情                    ■岡 茂雄著・中公文庫・1983年■ 
本屋風情
 民族学(民俗学)であったり、文化人類学(人類学)であったりは、その呼び名は変幻自在の学問であるが、それらが姉妹科学の考古学や言語学とともに一般に認知されだした頃、そうした学問領域の出版物を一手に引き受けるべく興った出版社に岡書院がある。社主は岡茂雄という、陸軍士官学校出の元軍人(歩兵中尉)。軍を辞めて東京大学人類学教室で鳥居龍蔵に師事した。1924年(大正13年)創業。活動期間は十年あまりで、1935年に廃業。いまではほとんど忘れ去られてしまった版元である。
 この『本屋風情』は、社主・岡茂雄氏が当時かかわった著名な学者や文人の知られざる一面を「裏木戸からの出入り人」という立場から活写した回想録で、第一回日本ノンフィクション賞(1974年・角川書店主催)を受賞している。
「本屋風情」というタイトルは、柳田国男を囲んでの、渋沢敬三宅で催された会食に著者が参加した際、柳田が「なぜ、“本屋風情”を同席させたのか」と他のメンバーにこぼしたというエピソードによる。「蔑辞」ではあるが、「いかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現」と感じ入り、愛着をさえ持つようになった記念すべき表題だとする。
 本書で紹介されている、柳田国男にまつわるエピソードのいくつかは、柳田の底意地の悪さ、不誠実なふるまいが描かれており、私など忌ま忌ましくてうんざりしてしまうのだが、著者はそんなひどい仕打ちに腐ることなく、版元と著者の関係をバランスよく保ち、ときには柳田邸に庭木(朴の木)をプレゼントするといったふうに心遣いが細かい。
 南方熊楠にまつわる逸話も面白い。天皇にご進講することが決まったときの南方の喜びようを次のように記している。
「声をはずませ、(略)その間手をふられ、脚も激しく動かして、うれしくてどうしようもないといった風」で、それは「私たちからは少年前期にはもう逸し去って」いるといえる、全身をつかっての瑞々しい感情発露なのだった。からだ全体を激しく動かすので、南方の着物の前がはだけ、その陰部が見え隠れし、目の遣り場を失い、なんとも辛いことであったと著者は述懐する。
 ほか、不遇な時代を経て後年斯界の権威へと出世したアイヌ語学の金田一京助の、人は偉くなると、不都合な過去をこれほどまでに手前勝手に都合よく更新してしまうものなのか──という事例が語られている。といって、著者は嫌みな書き方をしているわけでなく淡々と事実を記すといった筆運びである。新村出の『広辞苑』(前身の『辞苑』)、きだみのること山田吉彦『ファーブル昆虫記』(岩波文庫)の出版の舞台裏など、どのエピソードも一癖もふた癖もある大家の、意外な所行がうかがえて興味は尽きない。しかしその描き方は陋劣な暴露モノに陥るのではなく、一面の学術史になっているところが本書の凄みだろう。
 司馬遼太郎が『街道をゆく(36)本所深川散歩・神田界隈』で、やはり「本屋風情」という一節で本書に言及している。「表現の的確さと感情の抑制のみごとさにおどろき、読後、敬慕をおぼえた」と。
 最後に岡書院の本づくりにおける独特の最終工程のことを記しておこう。
 著者曰く「書物は毀れないということが、造本の要諦」とし、装幀・装丁は「装釘」と表記することにこだわった。「出す本ごとに、たたきつけのテストをした」という話が紹介されている(「三人の茂雄」、前出の司馬『街道をゆく』所収)。岩波書店でも「本を床にたたきつけ」てその堅牢さをチェックしたのだそうだ。かつて『本の雑誌』(本の雑誌社)で「文庫本をテストする」と題して、高さ12メートルの火の見櫓から本を落としてその堅牢度合いを競わせる記事(第3号・1976年10月刊)があった。結果、新潮、角川、岩波、中公、講談社、文春など20社の文庫本すべてが10回の落下テスト終了までばらばらにならなかったと報告されている。本は強くなったということか。まあ、なんとも馬鹿げた、『本の雑誌』らしい出色の特集ではあったのだが、すでに昭和初期に先人がいたわけだ。2017.8.16(か)
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