旧著探訪 (19)

 沈黙の宗教─儒教    ■加地伸行・ちくまライブラリー(筑摩書房)・1994年■ 





 30年も40年も前の受験生向け参考書の復刊が目立つ。『古文の読解』(小西甚一・筑摩書房)、『新釈現代文』(高田瑞穂・筑摩書房)、『新々英文解釈研究』(山崎貞・研究社)などなど。どういった事情なのだろうか。50歳以上のおっちゃんやおばちゃんがこれらを手にして昔を懐かしむのだろうか。
 過日、書店を徘徊していたおり、目に飛び込んできたのもそんな一冊。『漢文法基礎』(講談社学術文庫・2010年)。帯に「受験参考書をはるかに超え出たZ会伝説の名著、待望の新版!」とあった。著者は「二畳庵主人」。だれっ?と一瞬戸惑ったが、「加地伸行」と併記してあった。へえーこんな参考書を書いていたんだ(「二畳庵」は当時のペンネーム)。
 私は加地さんの文章のファンである。受験とはまったく縁遠い年齢ではあるし、受験を懐かしむ心性もないが、加地節を楽しみたくて購入した。案の定、「はじめに」から加地節が全開である。ほかの受験参考書を徹底的にやっつける。「なにひとつ目新しいものもなければ、なにひとつ説得力もない」「どうしてこんなクフウのないタイクツな本が出るのか」云々。高校生を読み手にした内容であるので、それは遠慮会釈なく、炸裂する。
 懐かしくなってずいぶん昔に刊行された『沈黙の宗教─儒教』を再読した。
 先祖供養と墓は、家父長制による家制度から来たものであり、封建制の名残であるという通説には、「愚かな解釈である。浅薄な理解である」と断じ、昨今の新宗教の流行に対して「現代の不安の現われである」とする社会学者の見立てに対しては、「類型的で陳腐な解釈」で「ピントはずれ」と一刀両断。近代諸科学的知見の上滑りが断罪され、東アジアの古層に底流する儒教から導き出される価値観から、私たちの精神、社会の仕組みや制度の成り立ちが、鮮やかに解釈されていく下りは、読んでいて爽快である。
 プロテスタンティズムが根付いていない日本で、なぜウェーバーのいう「資本主義の精神」が生まれたのかという、社会科学界ではしばしば話題になる大テーマも、一般的に流布する諸説には「全面的に批判的である」。会社・組織を生命体としてとらえ、その永続性・連続性を主眼とする儒教的死生観から《適正な合理的計画性》に基づいた経済活動が導かれるのだ、と分析する。なるほどなあ。
 じつは加地節が懐かしくなっただけではない。昨年父が他界し、仏前にお参りするたびに、仏教と儒教とが混淆した日本式仏教のあり方を整理しておきたかったこともある。わが家は浄土真宗なので、弥陀の本願に帰依して、絶対他力を救済の道にするわけだが、にもかかわらず降霊・招魂を求める儒教的な自分がいる。阿弥陀如来ではなく、死者を拝んでいる。どうも居心地の悪さを覚える。「宗教上の行為は、多かれ少なかれ、非合理的なものである」、それをあざ笑うのは「知性主義の傲慢にすぎない」とあるが、それでも、近代人の務めとして、自分なりにすっきりさせておきたかった。
 インドから中国を経て儒教が加味されて変容してしまった仏教を、それは仏教じゃないと切り捨ててしまうか、あるいはその変容をもひっくるめて受け入れるべきなのか。私は本書を通して、変容してしまった仏教もやはり私たちの仏教なのだと思えるようになった。ネイティブ仏教であれば日本には根付かなかったことだろうとも思う。
 先日、「インドの大魔王」こと、トラベルミトラの大麻豊さんから『父母恩重経のインド』(ふうや内観研修所)という冊子をもらった。大麻さんが自身の家族の思い出を語りながら父母恩重経を読み解いていった講演録である。「父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」とは、「如是我聞」で始まる、中国生まれの偽経。インド仏典とは何の関係もない。「父母の恩重きこと、天の極まり無きが如し」と説き、忘恩の徒(子)を戒める内容であるが、ずいぶんしっくり腑に収まる。これまでだと、こんなの仏教じゃないと、それこそ「傲慢」な態度をとっていたことだろう。でもそれがしっくりくる……。
 なんだか、大人になった気分である。 2011.4.4(か)
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