旧著探訪 (18)

 ソビエト帝国の崩壊    ■小室直樹・カッパブックス(光文社)・1980年■ 
 9月4日に小室直樹が亡くなった。「10日頃」という情報(副島隆彦氏のブログを出所とした噂とか)がネット上で流れていたが、この「頃」というのがいろんな憶測を呼んだようだ。9月29日付け一般紙紙上で「4日、77歳で死去」の報が遅ればせながら掲載された。近親者のみの葬儀であったようだ。
 小室直樹の名を人口に膾炙させたのが、今回取り上げている『ソビエト帝国の崩壊』であろう。1980年の刊行。タルコット・パーソンズの「構造・機能分析」という概念を援用して、社会主義ソビエトの危機を腑分けしてみせた。そして「スターリン批判」後の「鉄の規律」がなし崩しに壊れていく過程で惹起される急性アノミーが決定的要因となって、ソ連帝国は崩壊すると予言したのだ。当時ベストセラーになったが、はたして刊行後10年の時を経て、「崩壊」が現実のものとなった。氏の著作群はさらに洛陽の紙価を高めた。
 光文社のカッパビジネスからは、ほかにも『アメリカの逆襲』『新戦争論』『資本主義中国の挑戦』『田中角栄の呪い』などなど、1980年代から90年代前半にかけて、毎年数タイトルの出版が続いた。総タイトル20以上になる。もちろんその間もほかの出版社から単行本や新書判で続々と出ていた。2000年以降刊行された「日本人のための」と冠した、宗教原論、憲法原論、経済原論、イスラム原論、中国原論などの単行本も根強い人気があった。最後の著作となったのは、今年5月に出た『信長 近代日本の曙と資本主義の精神』(ビジネス社)。これは『信長の呪い』というタイトルで1992年にやはりカッパビジネスの1冊として出されたもので、その復刻版にあたる。社会学、経済学、法律学、政治学、人類学、統計学、心理学などなど諸科学全般にわたる学問をベースに、一般向けに書き下ろされた啓蒙書はたぶん70〜80冊にのぼるだろう。その学問的手法は、近代諸科学のオーソドックスな正統派の学説に依拠し、論理展開したもので、語弊を恐れずに言えば、近代諸科学原理主義者的ですらあった(そこがよかったのだ!)。
 それにしては…、という思いがある。学術・言論界からの評価が、いまいち低いのではないか、と思うのである。もっといえば、黙殺ではないか。京大理学部数学科卒業後、阪大大学院経済学科で森嶋通夫に師事し、フルブライト留学生として、マサチューセッツ工科大学にわたり、のちにノーベル経済学賞を受けたポール・サミュエルソンから理論経済学を、アメリカ社会学の泰斗、パーソンズからは社会システム論を、ハーバード大のバラス・スキナーからは行動心理学を学んだ。その後、東大法学部の大学院に席を置いて、丸山真男から政治学を、川島武宜から法社会学を、大塚久雄からウェーバー学を、中根千枝から人類学を……。当時の、きら星の如き錚々たる碩学から教えを直に受けた。そしてその圧倒的な学殖を自家薬籠中のものとし、社会を分析・解読・予言してきた。これほどの学者は、たぶんもう出てこないだろう。
 しかしながら、言論界へのデビュー作群が「カッパビジネス」という体裁であった(実際のデビュー作は『危機の構造』ダイヤモンド社、1976年)ゆえに小室直樹の評価が不当に貶められている、とは、多くの識者が指摘しているところだ。「カッパ」といえば『頭の体操』や『冠婚葬祭入門』であったり、娯楽・実用書のイメージが強い。中身は硬質な社会科学の本であるのに、装いがカッパ。たしかに、トホホと思う。同じ新書版であっても、中公や岩波であったならば、その後の展開もずいぶん違ったものになったことだろう。
 このたび30年ぶりにこの『ソビエト帝国の崩壊』を読んだ。私は小室直樹の著作はほとんどすべて目を通しているが、近年出版されている著作と比べると、ずいぶん力がこもっていて、野心を感じさせる。濃厚で読み応えがあった。年齢にもよるだろう。40歳代のいちばんバイタリティに溢れていた頃である。ひょっとしたら、皮肉にも「カッパ」時代の著作群がいちばん脂ののった、いい仕事だったのかもしれない、なんていうと言い過ぎか……。合掌。2010.10.5(か)
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