近著探訪(45)

 イスラーム思想を読みとく       ■松山洋平 著・ちくま新書・2017年■
イスラーム思想を読みよく
 エジプトやレバノンのアラブ・ポップスを特集したビデオクリップの鑑賞会で、一般の音楽ファンから「イスラームの国なのにこういうのはいいんですか」という質問が出た。Jポップス以上に肌を露出した女性歌手の登場に会場から驚きの声が上がった……。
『イスラームから考える』(師岡カリーマ・エルサムニー著、白水社、2008年)の巻末に収められた対談で中東学者の酒井啓子氏が紹介しているエピソードである。私たちが知っているイスラームとちがうじゃないの、という観客の反応だ。酒井氏は「中東研究者はそういう『なんでもあり』的世界に慣れ過ぎてしまって」いて、その質問に戸惑い、だれひとり答えられず、こうした日常世界における多様性を伝えるすべを持っていなかったと述べている。著者の師岡氏はそれをうけて、「イスラーム教徒はこうである、という典型像があって、それは『クルアーン』にこう書かれているからそれを守るように教えられている人たち」で、かつ「そういうことを守っている人たち」という理解が背景にあるようだと話す。
 本書(『イスラーム思想を読みとく』)の序章にもつぎのような会話が紹介されている。「あちらの(イスラームの)国ではお酒は無いんですね」と言うので、私(著者)は、「お酒はふつうに売っている国が多いですよ。飲む人も多いですから」と答えると、「ムスリムじゃない人が飲むということですね?」と言う。「いえ、ムスリムが飲むんですよ」と答える。すると、相手は、「じゃあ、お酒は許容範囲ということですね」と納得してしまいましたので、すぐに「いえいえ、お酒を飲むことは禁止されているんです」と言ったら、怪訝そうに意味がわからないといった表情になった……。
 イスラームは、戒律を遵守することに重きを置いた、決まり事の体系のようなものと考えている人が多いようだ、と著者は述べる。そうしたとらえ方を本書では「術の体系」と表現する。1日5回の礼拝であったり、ラマダーン期の断食であったり、豚肉やお酒のタブーであったり、このような儀礼・実践を重視する宗教観のことである。
 いっぽう、今ひとつに「信条の体系」という宗教観を著者は提示する。それは、先述した外から見える儀礼や行為よりも、その宗教がもつ神学的世界を事実であり真実であると信じることに重きを置く立場だ。つまりイスラームの宗教的世界観をそのまま信じること。私たち日本人がイスラーム世界をみるとき、この「信条の体系」に思いをいたすことはあまりなく、「術の体系」にその多くの興味を振り向ける傾向にある。そうしたアプローチが、イスラーム理解において齟齬を来たすようだ。
 いや、正確にいうならば、イスラームをみるときに限ったことではなく、そもそも多くの日本人の一般的宗教観は、私もそうだが、「術の体系」に重心があるように思える。たとえば自身を熱心な仏教徒であると自己認識している人であっても、教義を信じ、その世界観(たとえば成仏であったり、極楽のイメージ)をそのまま事実であり真実のものとして捉え、心の中の「信仰」そのものを前景化させるようなことはあまりない。どちらかといえば儀礼であったり作法に重きを置く。
 般若心経を写経する。明窓浄机、姿勢を正して、一字一字丁寧にお経を書き写していく。だからといって、この262文字に込められた「空の哲学」の獲得をめざして筆を運んでいるようには思えない。書き写すことで、なんだか、ありがたい心持ちになって心が安らぐということだろう。そうした功徳に与る。つまり「術の大系」にあるわけだ。お寺で座禅を組む。精進料理を食す。身も心もさわやか。これまた「術の大系」である。
 著者によると、「日本人が宗教において大切にするのは『心』だ」と言ったときに意図されるのは、「心の豊かさ」「魂の平安」といった「効能」であり、その効能の高さを信頼して「信者となっている」という(35頁)。そこに根源的な「信仰」そのものを問うことはない。このように「信条の体系」を不問にして「術の体系」によりかかった、私たちの宗教観ゆえに、冒頭の酒井氏のいう「なんでもあり」的世界がうまく理解できないし、読み解くことができない。
 たとえばIS(イスラム国)の戦闘員たちはムスリムか?という問いかけにどう答えるか。イスラーム界の多くの論者の意見では、その過激なテロリストの正当性は認めないものの彼らがムスリムであることは否定しない立場をとるという。罪人であってもムスリムであり、その信仰は否定されない。信仰はあくまで心の問題ということなのだ。
「信仰の有無」と「行為の正当性」は別のものなのである。その分別がないゆえに「或る行為をする者がムスリムである」=「その行為はイスラームで正当化される行為である」と考えてしまうのだ(41頁)。昨今の世情にしばしばうかがえるように、たとえばその行為がテロリズムのようなものであると、結果イスラームへの嫌悪が吹き荒れる。
『週刊読書人』(2016年2月26日)で本書の著者松山洋平氏と、イスラーム法学者・中田考氏との対談が掲載されている。中田氏がつぎのように述べている。
「イスラームとは、神に対する信仰です。そこに自分の救済がかかっているのです。それ以外のことは文化にすぎず、どうでもいいことなんです」
 中田流の、誤解を招きやすい激しい表現ではあるが、「信条の体系」の神髄であるだろう。
 実存的に神と対峙するような峻烈な体験もなく、来世における救済についての関心もほとんどない、そんなあまりにお手軽ともいえる宗教観の私たち日本人にとって、「信条の体系」という視座は、ものの見事に抜け落ちていたように思う。本書のおかげでたくさんの鱗を目から落とすことができた。
 ところで、今回ここで取り上げた宗教観にまつわる話題は、序章から1章にかけての内容である。ほんのイントロ部分なのに強烈なインパクトがあったせいか、2章以降の、サラフ主義のこと、ジハードのこと、カリフのことなどなどの興味深いテーマにふれることができなくなってしまった。新聞や雑誌などのジャーナリスティックな領域ではおなじみのテーマ群ではあるが、これまでほとんどなかった、著者ならではの、神学的・法学的なアプローチでこれらのトピックを読み解いてくれていて、これまた私はおおいに蒙を啓いてもらった。未読の方はぜひ。2017.12.3(か)
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