ヴェネツィアの宿 ■須賀敦子 著・文春文庫・1998年■

 「夏のおわり」の謎 



ヴェネツィアの宿
ヴェネツィアの宿
須賀敦子 著
文春文庫・1998年

文藝別冊[追悼特集]須賀敦子
文藝別冊[追悼特集]須賀敦子
河出書房新社・1998年

須賀敦子の方へ
須賀敦子の方へ
松山 巖 著
新潮文庫・2018年

『文藝別冊[追悼特集]須賀敦子』(河出書房新社、1998)をぱらぱら目を通していたら、須賀敦子生みの親ともいえる、日本オリベッティの広報誌『SPAZIO』の編集者、鈴木敏恵氏が寄稿している一文「哀しみは、あのころの喜び」に興味深い下りがあった。
 鈴木は「編集者として興味がもてるのはあなたのイタリアだけ」と須賀に述べて、後日「イタリアと日本とあなたのなかではどっちが虚構なの」と訊ねると、須賀はあっさりと「イタリアね」と答えた。内心ぎくりとしたと鈴木は書くが「どこかで安堵していた」。「だから」とつなげて鈴木はこうしるす。
「『ヴェネツィアの宿』は唯一、彼女から贈られなかった著書であり、私も買いそびれて未だに読んでいない」と。
 えッ、そうなの! 意外だった。私のイチオシが『ヴェネツィアの宿』だったから。他の作品と違ってこちらは「イタリア」がどんと中心に据えられているのではなくて、亡き父の思い出であったり、家族や一族のこと、またイタリア時代の回想であっても日本の今ある自分にポジショニングして「日本」を体験的に述べていくスタイル、そうした、ある意味イタリア離れの短編がおもに収録されている。イタリアの日本支社が発行する広報誌を担当する編集者としては当然「イタリア」が少なくとも通奏低音となっていることを求めるのは当然ではあろうが……。
 しかも須賀がそのイタリア離れを忖度して鈴木には献本していないという事実と、買いそびれて未だ読んでいないと述懐する鈴木にも驚いた。
 さて、その短編集のなかに「夏のおわり」という戦時中のひと夏を描いた作品がある。須賀一家が東京から疎開して祖母の家がある阪神間の夙川に住んでいたころのこと。須賀は当時16歳。阪神間においても空襲が激しくなってきた昭和20年の3月、病弱であった母は15歳の妹(良子)、11歳の弟を連れて母方の伯母夫婦(伊藤家。作品では「鬼藤家」となっている)が住む「播州平野のはずれにある小野という小さな町」に疎開していった。そこには伯母夫婦の娘(奈緒子。夫は出征中)も名古屋から疎開してきて2歳の娘(かずちゃん)と一緒に住んでいた。かずちゃんは「玉のように美しいという表現が誇張でなくぴったりの、利発な子だった」。そのかずちゃんを妹の良子は、周囲が驚くほどかわいがり、言葉を教えたり一緒に散歩をしたり溺愛した。ところが、夏のある夜、かずちゃんは疫痢であっけなく死んでしまうのだった。さらに8月の終わりには母が原因不明の熱病で生死の境をさまようことになる。須賀姉妹はなすすべもなく不安な夜を幾日も過ごす。幸い母は一命を取りとめた。ところが9月も半ばになって、学徒動員でフィリピンに出征していた伊藤夫妻の長男(欣一)の戦死の報が届く。
 死というものがそこかしこに忍びよっている、不穏な時代の空気が強く漂う、昭和20年の短くも暑い夏が見事に切り取られた珠玉の一編だ。
「イタリア」とは一切関係はないが、これも「いまは霧の向うの世界に行ってしまった」(『ミラノ霧の風景』「あとがき」より)人たちに捧げられた物語といえるだろう。
 大好きな作品であるが、ちょっと腑に落ちない箇所があって、播州平野を出自とする私としては、枝葉末節になることではあるがひと言以下しるしておきたい。
 須賀は月一回の休日に、軍で支給された甘味料や、配給品の魚を干物にして届けるべく、「神戸から電車やバスを乗りついで小野の母たちを訪ねる」。電車の私鉄最終駅(三木駅)からは配給の切符がとれればバスに乗れる場合もあるが、そうでなければ峠道を「八キロ」歩く。途中、持参した弁当を食べようとしたら暑さで蒸れて腐ってしまったこともあったと須賀はしるしている。早朝に家を出てやっとのことで伯母宅に着くと、ほどなく帰宅時間となりとんぼ返りになってしまうこともあったという。
 この道程を評論家の松山巖氏が2010年に実際にたどっている。著書『須賀敦子の方へ』(新潮文庫、2018)にそのドキュメントが収録されている。
 松山は新開地駅から神戸電鉄粟生線で三木駅(昭和29年までは三木福有橋駅)まで乗車した。現在その路線はその先へと延伸して小野駅、さらにその先の粟生駅でJR加古川線、北条鉄道とつながっているが、それは戦後(昭和27年)のこと。松山は小野駅まで乗車することなく途中の三木駅で下車し、須賀が歩いたであろう「八キロの古い道」をタクシーで小野小学校まで向かっている。松山が小野小学校を目指したのは、伊藤家の近くに小野小学校があったという、須賀の妹・良子の記憶にもとづいたという。
 16歳の少女にとって炎天下の山越え8キロの道のりは少なくとも2時間以上はかかったであろう。ある時、須賀は峠道で通りかかったトラックにヒッチハイクして荷台に乗せてもらった。母に「らくちんだった」と得意顔で報告したのだったが、のちに伯父の前に座らされて説教される。「これからはそんなことをせんように。トラックの運転手といって、もちろんわるい人間ばかりではないだろうが。(略)」
 小野藩に仕える武士の末裔であった伯父の所作は「凛とした風格みたいなものがあった」。そして「この伯父がけむたくもあった」が、「あれでいてあの子はきみの傑作だって鬼藤(伊藤)の伯父さんがあなたのことを言ってた、とあるとき母から聞いたのを、私は宝物を箱にしまうようにして大事にした」。だから、須賀にとって権威として崇めみる伯父の手前、意気地ないふるまいは許されなかったのだ。バスがなければ8キロの道のりをなんとあっても歩かなくてはならなかった。
 ここで疑問が湧くのだ。なぜこの道を選ばなくてはならなかったのかということに。物語の本筋には関係ないものの、私は不思議な思いになる。
 神戸方面から小野に向かうルートには当時須賀が辿ったものよりはずっと楽な方法があったんじゃないか(と思う)。それは、神戸から国鉄(JRの前身)山陽本線で加古川駅へ行き、そこで加古川線(国鉄)に乗り換えて北上する方法。このラインは河川の加古川沿いに走っている。小野小学校は加古川の左岸にある。加古川線の小野町駅(右岸)で下車して大住橋を渡れば距離にしておよそ2キロもない。ではあるが、残念ながら大住橋は昭和61年(1986)に架けられたので当時はなかった(ただおそらくは渡し船があったのではと思う)。昭和20年であれば小野町駅の一つ先の駅、粟生駅(右岸)で下車する。すこし北回りになるが加古川に架橋されている粟田橋を渡って左岸へ。粟田橋は昭和9年(1934)に架けられているが、近くには戦車部隊が駐屯していた青野ヶ原演習場(現在は自衛隊駐屯地)があったゆえ、戦車が通行できるよう当時からコンクリート製で頑強につくられていた。しっかりした橋だ(2013年の台風18号の影響で架け替えられた)。この橋を渡って左岸へ。そして南へ歩く。このルートであれば、距離にして駅からして4キロ強だろうか。
 あるいは小野町駅の一つ手前の駅、市場駅(右岸)で下車して万歳橋(大正5年架橋)を渡って左岸へ。そこから北方向へ。これだと駅から歩いて3.5キロ前後。より近い。
 どちらであっても三木からの8キロの山越えに比べればずいぶん楽なはずであるし、人里離れた峠道を少女がひとり歩くことを思えばずっと安全である。もともと伯母夫婦は須賀家の建築設備会社の東京支店を長く任されて、のちに神戸の岡本へ移り、定年後に小野にある伊藤家代々の屋敷に引っ越した。といって長らく故郷を離れていたせいで地理を忘却してしまっていた……なんてことは、あれだけかくしゃくとした老人であることからすればおよそ考えられない。いずれにせよ私にとっては「夏のおわり」最大の謎である。だれか事情がわかればご教授いただきたいのだけれど。
No.2 2024.1.9(か)
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