ムハンマド・アリー公『日本紀行』
『日本旅行記』(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著 

 ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅)
 ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎)
 ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎)

 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)はオスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版を翻訳したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。
【敦賀〜米原〜横浜】編

長浜駅初代駅舎(1882年完成。現存する日本最古の駅舎)©Tokyo-Good

 いくつかの町をつないでいる農業用道路がゴミひとつなく完璧に整備されていることに気づく。しかしながらそれらは本来あるべきものからすれば道幅が狭いようにも思える。
 車窓から土地の人が背中に荷物を背負って運んでいるのが見えた。彼らには小さな手押し車以外の車はないのだと気づいた。だから広い道は必要ないのだった。
  農地がきれいに整備されているのが見える。まるで作物で飾り立てられたかのようだ。 見る者にとってはそれらは庭園か、泉があって住みよい丘陵地帯のようにも見える。
 輝く草原、きらきらするパラダイス。 それらの境界は真っ直ぐに伸びている。いつもの集落があるが、彼らは住むのにいちばんいいロケーションを選んでいる。森と川の真ん中に村を形成している。それは、夏の厳しい暑さと冬の凍えるような寒さから、身を守るためである。それぞれの家はその家にふさわしい庭(果樹園)を持っている。そのせいか、家々は陽気で喜びにあふれているように見える。この状態を目にしたとき、私はうきうきした気分になって天高く楽園にいるかのように感じられた。
 収穫が間近に迫っていた。人々には喜びの表情が見える。我々とともにいる旅人たちのみんなにもその表情がうかがえる。この国にはスイスにあるような美しい景色がある。高い山はないけれど。
 幸運なことに、季節は春だったので木々のすべてが鮮やかに輝いていた。
 女性たちが米作りに精を出しているのが見えた。米作りが彼らの農業において一番のものだ。それは必ず水を張った土地に植え付けられる。

 2時間後、自分たちの荷物を持って、小さな駅(1)で下車するために向かった。そこで昼食をとって(11時ではあったけれど)、新しい列車に乗り換える。車内にアメリカ人の年老いた女性とその娘を見た。大柄な日本の老人も見た。口ひげは剃っているがあごひげは残している。彼は座席で眠っているように見えた。アメリカ人女性の方に両脚を投げ出して横になっている(2)。変な感じだ。これほどの気ままな態度、自由奔放なふるまい、これにはびっくりしてしまった。まわりの乗客の誰一人にも遠慮することなく、人がいようがいまいが、気にかけることないこの傍若無人さといったら! まるで自分の家で家族とともに寛いでいるような感じだ。彼は自分のことしか見ていない。

 二等車がひどく混雑していたので、私の従者のために席を一つ空けてもらうよう警官に頼んだ。警官がその車輌に入るやいなや、乗客に頼む前に彼らは席を空けてくれた。
 一等車輌と二等車輌は日本の兵士たちで混雑していた。彼らもまた周囲のことには一切気遣わず靴を脱いで折り重なるように眠り込んでいる。彼らの一部は、唾を吐いたり、鼻をかんだり、あくびをしたり、他にも我々が恥ずべきこととみなすような、もろもろのことをやっていた。 我々がタバコやコーヒーを嗜むように、彼らもまたひっきりなしにお茶を飲む。

 米原駅での食事はふさわしいものだった。 少ない給仕と大勢の旅客のせいで、厨房から自らが必要なものを取ってこなければならないような有り様だった。
 給仕係と料理人は大変丁寧な所作であった。彼らの挨拶は一つ一つ言葉を添えて腰をかがめる。誰かがプレゼントやチップのようなものを渡したりすると、彼らはそれをとても貴重なものとしてみなす。喜び一杯に素敵な笑顔とともに丁重にかつ敬意をこめて受け取る。たとえそれが何であっても。価値が低いものであってもだ。

 米原から東京行きの列車が走り出した。
 これは2時間の距離(3)である。その間にはたくさんの町を通過する。言葉に言い表わせないほどの美しい景色だ。それを正確に描写することなんてとてもできない。たとえ筆が許したとしても、また気の利いたことを言えたとしても、実際に見たものは、聞いたものとは同じではない。
 我々は琵琶湖とよばれる大きな湖を通過した。その近くには富士と呼ばれる大きな山がある。それは人々の間で畏敬の対象となっている山で、我々のアラファト山(4)のように崇められている。標高はかなりある。そのため頂上では雪が途絶えることはほとんどない。たとえ夏であっても。
 その山に対する人々の敬愛の念と、その美しい姿をもっているゆえに、彼らはあらゆる工芸品にその姿を必ずと言っていいほどに描いている。

 横浜に着いた。そこは大きくて重要な貿易港である。その重要性は、この国の中心地であり首都である東京に近いゆえのことである。

(1)小さな駅|長浜駅と思われる。1884年に柳ヶ瀬トンネル(当時国内最長の1351.1m)が開通し、敦賀・長浜間を2時間で運行した。
(2)両脚を投げ出して横になっている|清水勲編『ビゴー日本素描集』(岩波文庫、1986)より。

左の絵は、「妻をいたわる夫は…」と題して「席に横になった奥さんは暑くて寝苦しいのか、うちわを使用している。(西洋人の)ご主人の方は食事中で、寝つきをよくするよう奥さんにアルコールをすすめている」とある。一等車の様子である。右の絵は、「二等車…夫をいたわる妻は…」と題して「夫を寝かせ、自分は不寝番で耐える女性」を描いている。日本人夫婦間における妻の夫に対するつくし方にビゴーは「滑稽さを感じている」とある。この二つの絵は、西洋人男性と日本人男性それぞれの女性に対する接し方を対比して描いている。アリー公が驚いた、いわゆる男尊女卑的な光景はビゴーの目にもやはり印象的に映ったようだ。
(3)2時間の距離|米原・東京間の2時間は明らかな間違い。後述の琵琶湖を過ぎて「その近く」の富士山への言及にも距離感の混乱がみられる。
(4)アラファト山|サウジアラビアのメッカ(マッカ)の東南約20キロに位置する花崗岩でできた丘(標高約60mあまり)。アダムとイブが楽園から地上に下された時、はぐれてしまったが、アラファト山で再会できたため、「知る」を意味するアラビア語「Arafa」から転じた呼称。メッカへの巡礼者たちはこの丘で神に慈悲、祝福を求めて祈る。ハッジ巡礼において最も重要な儀式と考えられている。

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