■ 大櫛克之さんを憶う │ 庄野 護 │
 大櫛克之氏は、国内で市場やビルの管理会社を経営しながら、中国でコンサル会社、十元均一店、縫製工場、段ボール工場、カレー店、ブティックなどなど、様々なビジネスを展開した。衣料品ビジネスなどは、成功したといえる。しかし、総決算すればそうした多様な活動は7勝8敗の負け越しだった。主観的には、8勝7敗の勝ち越しという判断も成り立つかもしれない。
 1980年代後半に実施した、上海への中国語短期留学団の派遣には、私も積極的に協力した。3度にわたって引率者を務めた。神戸から船での上海行きであった。短期留学ビジネスとして、日本での初期の試みだった。ノウハウを得たのは、HIS(秀インターナショナル)だったかもしれない。大阪の責任者は、東京に呼ばれて同類のビジネスを拡大することになった。出世したのである。
 
作家としての大櫛克之氏の代表作は、『三国志』全5巻(素人社、1990)であろう(左写真・函入り)。2000ページもの作品は、三国志の創訳である。日本には三国志の研究者や愛読者が多く、大櫛『三国志』はファンのあいだで読み継がれていくだろう。大櫛版を出版した京都の出版社・素人社は、当時は経営の苦しい印刷屋でもあった。大櫛『三国志』が、思いのほか売れたことで、会社として息を吹き返した。現在の状態については知らない。
 会計処理の専門家でもあった。会計ソフトを開発したこともある。誰よりも早くワープロを導入し、パソコンへの移行も早かった。複数の会社の会計処理や市場の経営に昼間の時間をさき、仕事が終わって帰路につくまでの1時間足らずが、かれの執筆時間であった。1時間足らずに、400字原稿用紙に換算して約10枚。日産10枚という速度が、大櫛克之氏の執筆速度であった。仕事で執筆できない日も少なくなかった。だから、結果として月産100枚から150枚(400字換算)程度であっただろう。20年以上は、そのように書いてきた。その結果が、多数の著作につながった。小説の作品も文芸雑誌の奨励賞程度の作品は2〜3ある。
 私と同じ徳島市出身とはいえ、大櫛克之氏と出会ったのは、1980年頃のことである。沖縄から大阪に移ってきて、間もないころだった。3年暮らした沖縄から大阪への転居の理由のひとつは、漫画『ジャリン子チエ』であった。『ジャリン子チエ』を知って、漫画の舞台、大阪市西成区萩之茶屋を目指した。30歳になろうとしていた私は、いまだそんな人生を送っていた。 萩之茶屋から西に、鶴見場商店街という日本で有数の長さと活気に満ちた商店街があった。野間宏の小説『真空地帯』の舞台である。日雇い労働者のコミュニティを被差別部落や屠場産業がとりまく大阪の下町の凝縮した世界である。
 大櫛氏はその鶴見橋商店街を抜けた地点にあった元幼稚園の校舎を利用して、中学生向けの進学教室をしていた。高校受験の進学教室とはいえ、入塾してくるのは他の民間学習塾に入塾を断られた低学力の中学生ばかりだった。 私は大櫛氏に会いに出かけ、講師をしたいと言った。面接は、進学教室の事務所で受けた。
「数学の教師が足りないからやってみるか?」と聞かれた私は、「はい」と答えていた。 数学など教えたこともなかった。が、私はやることにした。私にとっては、大阪市西成区のこの地域いったいにかかわることが目的だった。幸運だったのは、数学担当講師の主任が大櫛氏であったことである。最初は、大櫛氏の教えるクラスのアシスタントをした。なれてきた頃に、一人で教えるようになった。 その学習塾は、建物が壊されるということで、2〜3年の運営後に終わりとなった。もとあった幼稚園は、新しい埋立地で建物も大きくなって再生した。1983年ごろのことである。
 鶴見橋進学教室という経験を共有して、大櫛氏と私は互いの距離を縮めた。徳島市にいた大櫛氏の母親とも私は親しくなった。母親は小野ゑみ氏といって徳島県を代表する文化人であり、毎週、徳島新聞のどこかの記事に名前が載るような人物であった。徳島を流れる吉野川中流に第十堰という江戸時代に建設された人工ダムがある。その撤去を当時の建設省が計画したとき、徳島市民は住民投票で否決した。そうした市民運動の事務局には、いつも小野ゑみさんがいた。その小野ゑみさんが、息子の大櫛克之氏について、私にひとこと言ったことが忘れられない。
「あの子は、友だちのいない子だった」。何を伝えたかったのか、と思い出すたびに考える。
 小野氏は、作家・瀬戸内寂聴も学んだ女学校時代には陸上部の選手であった。足腰が鍛えられていたのか、十分に長生きした。が、終わりは訪れた。最後を看取ったのは、娘のひとり。大櫛克之氏の姉である。地元徳島ではない場所に住む姉が、最後の看取りをしたのだ。最後の数ヶ月にわたる姉と弟(大櫛克之氏)との電話のやり取りについて、私は少しだけ伝え聞いている。介護する姉にとっての絶望の日々があったようだ。そういう話が、私が人を看取るときの参考になり、また勇気づける。
 大櫛克之氏とは、亡くなる最後の1年、毎月1回の葉書のやりとりがあった。次第に読みづらい手書き文字となり、しまいには宛名を代筆してもらうようになった。終わりを感じながら、最後の時間を過ごしていただろうと思う。すべての人は死ぬ。メメント・モリ。死を思いながら時間をかけて死んでいくこと。それが、現代人の正しい死に方であるように思う。
 私の話に戻ると、大阪市西成区鶴見橋で非常勤の塾講師をしながら、造園設計事務所でもアルバイトをこなしていた。1981年になっていた。大阪での2年目には、大阪市教育委員会の嘱託教師として、塾講師を兼任することになる。同和地区の高校生への公営の学習支援塾である。講師には現職の高校講師が駆り出されていたが、辞める人も多く、長期間継続してもらえる人材を求めていた。
「国語の教師が欠員なので、お願いします」。面接に出かけると、そういわれた。「はい」と答えて、大阪市教育委員会から嘱託教師の辞令をもらった。 西成区鶴見橋も同和地区とされるが、二つ目の職場も大阪市の最南端にある同和地区のひとつであった。
 日本の都市スラムについて経験を深めていくにつれて、アジアの都市スラムへと関心がひろがっていった。
 1984年9月には、長期活動をめざしてバングラデシュ・ダッカの都市スラムで民間ボランティアとして活動を開始した。その結果はさんざんたるものだった。病気になって半年後に帰国となる。しかし、大阪とバングラデシュでの経験で、都市スラム開発での行政と民間の活動の連携と線引きというようなことが見えてきた。
 のちに私は、日本での同和地区の経験とアジアの都市スラムでの経験のつながりを共有できる専門家とめぐり合うことになる。東洋大学工学部、内田雄造教授(故人、1942−2011)である。内田氏は、1969年1月の東大闘争で安田講堂に最後まで立てこもった元学生運動活動家である。東洋大学助教授の時代に、当時の高知市長から直接依頼されて、高知市周辺のいくつもの同和地区に道路や公園、公営住宅を建設する計画をすることになった。内田氏が下した判断は、高知市郊外の同和地区に住み込んで住民と話し合いながら計画を作成できる人材を全国から集めることだった。内田氏の代表作に『同和地区のまちづくり論 環境整備計画・事業に関する研究』(明石書店、1993)がある。 高知市での再開発事業への呼びかけに応じた一人が、大阪から参加したM氏であった。私が沖縄県名護市で共に働いた(雇ってもらった)コンサルタント会社役員でもある。内田氏は、多くの場所で私と共通する知人がいることに驚いていた。
 内田氏は東京で月1回の誰でも参加できる勉強会を主催していたが、そこから育った一人が湯浅誠(現、法政大学教授)である。2008年の年越し派遣村で名が知られるようになった湯浅だが、ホームレスの問題に何年も地道に取り組んでいた。私が東京での勉強会で一度だけ会ったのは、2001年夏である。湯浅は、岩波新書『反貧困「すべり台社会」からの脱出』(2008)を書いている。
 内田雄造氏と初めて会ったのは、私のスリランカ時代の1994年である。1988年に青年海外協力隊に応募し、翌年からスリランカのコロンボの都市スラムで活動することになる。コロンボ市で開かれた都市スラム開発の国際セミナーに参加した内田氏とは連日会って議論した。セミナーの最終日には、共同発表者として手伝ってくれと依頼された。私の英語力を過大評価したと思うのだが、発表テーマの「日本の同和地区での開発経験とアジアの都市スラムの開発」については、共有できる考え方があった。その発表を私は冷や汗をかきながらこなした。
 大阪・鶴見橋での大櫛克之氏との出会いは、スリランカの都市スラムにまで導いてくれる長い道となった。

■大櫛克之(おおぐし・かつゆき)
1944年徳島生まれ。京都大学農学部卒。上海IBUKI投資諮詢有限公司董事長。十元均一店、縫製工場、段ボール工場、カレー店、ブティックなどなどのさまざまなビジネスを中国で展開。おもな著書に『三国志 全五巻』(素人社)。2007年に南船北馬舎より東周列国志の現代語訳、『執念 東周列国志(楚 呉 越)』を出版。2018年逝去。

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。

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