旧著探訪 (34)

 『幸福のアラビア探険記』  ■トーキル・ハンセン著/伊吹寛子訳/六興出版/1987年■ 
『幸福のアラビア探険記』の書名のことから──。
 活字の字送りを注意深く見ると、「幸福のアラビア」と「探険記」のあいだにわずかなアキが設けてある。カバーデザインでは、「幸福のアラビア」でいったん改行した表記になっているのでわからないが、奥付の表記ではそうなっている。
「幸福のアラビア 探険記」というふうに。
 川端康成のノーベル文学賞での基調講演の演題「美しい日本の私」は、「美しい」のは「私」ではなく、「美しい日本」の「私」ということだし、大江健三郎のノーベル文学賞でのそれは、「あいまいな日本の私」であるが、「あいまい」なのは当然「日本」にかかるわけだ。
 まどろっこしい書き出しをしてしまった。ひょっとしたら本書を「幸福の」「アラビア探険記」としてしまったら……、とおせっかいにも思ったのである。もしアラビアへの「幸福の探険記」と思いこんで読み進めていくと、どこが幸福なんじゃ!これほどに不幸な探険記はないじゃないか! 看板に偽りありとなってしまう。
 本書は、1761年デンマーク王国が「知識と科学との推進、及び臣民の輝かしい栄光のため」にアラビアへ派遣した学術調査隊の顛末を、1962年にジャーナリストの著者が原資料からまとめ上げたノンフィクションである。
 調査隊のメンバーは、言語学者のハーベン教授、植物学のフォーススコル教授、天文学・地理学のニーブル中尉ほか、画家、医者が各1名、そして従僕1名。計6人のパーティである。これが、まさに呉越同舟でそれぞれが敵対的でとても共同作業なんて望むべくもない一行なのだ。とくに言語学者のハーベンの常軌を逸した無責任と独善、傲慢、怠惰、卑劣、金銭への強欲さは感動的ですらある。いっぽうその敵役フォーススコルの高慢さ、短気な唯我独尊ぶりも負けていない。ハーベンが砒素を大量に購入して周囲のメンバーを恐怖に落とし入れるにいたってはもはや学術調査隊の体をなしていない。はっちゃかめっちゃかの隊員たちなのだ。そして1767年、それぞれが友情を育むこともなく、互いの存在に嫌悪をもよおしながら、期待されていた学術的な成果をほとんどあげることもなく、旅を終える。しかし、無事生還できたのはニーブル中尉のみで、ほかの5名は祖国を遠く離れたアラビアの地で、過酷な自然と、現地人との軋轢、トラブルに消耗したあげく、マラリアに冒されて命を落としてしまったのだった。これほどに「不幸なアラビア探険」はないのである。
 本書の構成は、調査隊の船が出るまでの、とくに両教授の傲慢不遜なふるまいやら、各メンバー間の軋轢、確執の模様の描写にけっこうな紙幅がさかれている。訳者の伊吹氏は「あとがき」で、「早速読み始めましたが、探検隊の成果に早く行き着きたいと考えていた訳者にとって、最初の何十ページもが出発までのいきさつにあてられていたことは意外で(略)」と述懐されている。私も同様の感想をもつ。
 そもそも本書の翻訳は、美術史家の杉山二郎氏からの話であったと訳者はその「あとがき」で紹介している。その杉山氏は「解説」で、1966年「東京大学イラク・イラン遺跡調査団」に参加したおり、イラクのモスルで気分転換に訪れた百貨店で、書籍売り場の片隅に並べられていたなかから原書を手に入れたとしるし、「自らが参加している東大調査団との比較が時折頭の隅をかすめたりしながら」読んだとある。東大調査団(団長は「騎馬民族渡来説」を唱えた考古学者の江上波夫氏)も、地政学、人類学、植物学、古生物学、建築史学、美術史学などの学際的な混成メンバーであったようで、こちらの調査隊ではどんな人間模様が繰り広げられていたのだろうと下衆の勘ぐりをめぐらしてしまうのである。
 さて、書名の意味するところはあらためて書くまでもなく、「幸福」は「アラビア」を修飾し「幸福のアラビア」の地への「探険記」である。この「幸福のアラビア」とは「アラビア・フェリックス(Arabia Felix)」というラテン語に由来する。英語では「Happy Arabia」となる。古代ギリシア・ローマ人たちがアラビア半島南部をそう呼んだ。現在のイエメンあたりを指す。紀元前、このあたりは、中国やインド、東南アジアから運び込まれた香料やら香木、絹などを地中海世界へと中継しおおいに繁栄した。東西を結ぶ、独占的な交易拠点であったのだ。また、かの地で採取される乳香、バルサン(樹脂の一種)、没薬(もつやく)などはその希少性ゆえに黄金並みの高値で取引され、これまた巨万の富をもたらした。この地にあったとされるシバ王国の女王がエルサレムのソロモン王に大量の金(200キカル=約7トン)、宝石、香料を贈った逸話はその金満ぶりをしのばせる。そうした栄華栄耀を「幸福のアラビア」と羨望をもって呼び習わした。しかしながら、紀元1世紀ごろヒッパロスというギリシャ人が、インドからアフリカ東海岸に至るアラビア海一帯を吹き抜ける季節風の周期性を「発見」してしまうことで、転機を迎える。つまり、その地のアラブ人しか知らなかったモンスーンをうまく利用した航海術が、秘密でもなんでもなくなって、ひろく知られるようになる。と、その独占的な交易は終わりを告げる。「幸福のアラビア」は遠い昔話となった。いまではイエメンといえば、オイルマネーの恩恵にもあずからず、中東の最貧国に没落してしまっている。近年ではシーア派のフーシが台頭し、内戦が激化、物資不足で飢餓状態に陥っているとも伝えられる。

 その「幸福のアラビア」と称された地への旅がなぜかくも悲劇的なものになってしまったのか? 「幸福」とは何が幸福なのか。すくなくともデンマークの調査隊にとってその問題は切実なものであったようだ。
「生存者が『幸福のアラビア』に固執すれば、それは死を意味するであろう」(307頁)。サヌアでのニーブルの弁である。
 著者のハンセンはつぎのように説いている。
「「幸福のアラビア」という名は誤訳」であるとする。(方位を定めるとき)アラビア人は東を向くことから、元来「右」を意味したyamiinがアラビア南部をさすようになって、そこから「イエメン」(al-yaman)と呼ばれるようになった。「したがってイエメンという国名は右手の国、右の方向にある国の意味である」(308頁)
 そしてまた、右手を清浄とし、左手を不浄とする考えがそもそもあったことから、「右(yamiin)」の国イエメン(al-yaman)は「幸運・繁栄(yumn)」にもつながった(これらの三語根YMNが共通する)と説いている。
 ──だから。
 なにもこの地は「幸福」なんかじゃなかった。たんに「右」であっただけだ、「南アラビア」という地理的概念に過ぎないのだ、と。
 史実としての「幸福のアラビア」と、調査隊が体験してきた決して楽園なんてもんじゃなかった「不幸のアラビア」。「アラビア」と「幸福」をつなげる言葉なんて、この世には存在するはずがなく、存在させることすら許すまじといわんばかりに、なんとしても「幸福のアラビア」という言い習わしを否定したかったようである。「誤訳」であったと、その語源を説く著者の一節からは、ヨーロッパ人の傲慢さが見え隠れしているように思えるのだが。
「もしわれわれが風邪(マラリア)をもっと用心していさえすれば、また(略)現地の習慣に合わせていさえすれば、さらに隊員がもう少し相互に信頼感を持ち、猜疑心や反目によって始終不安定な精神状態で旅を続けるということさえなければ、おそらく全員そろってヨーロッパに幸せな帰還をしたことであろう」
 ニーブルの述懐である。そう、そのとおり。旅が不首尾に終わり、「不幸なアラビア」に見舞われた原因はそこにあって、そこ以外にはないのである。それでも決して「幸福のアラビア」というひと続きの言葉をかれらは頑として受け入れなかった……。
 最後に書名がらみでもうひとつ──。「探険」という文字。たとえば「南極探検隊」にあるようにふつうは「探検」である。デンマークの学術調査隊であれば、やはりここは「調べる」の意味を持つ「検」が適当であろうと思うが、あえて「危険」の意を強調する「険」が使われている。イレギュラーである。訳者の意向か、編者の意向か?
「険」の旅路にしてしまったのは、繰り返しになるが、その地が「険」であったのではなく、隊員間に飛び交う憎悪の応酬が生み出した、自らの「険」によるものであった。やはりここは本来の目的に合わせて「検」であろう。2019.3.17(か)
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