旧著探訪【前口上】
 日経文化欄(01年9月16日)にノンフィクションライターの野村進氏の興味深い記事があった。
 以下、少し要約すると……。「私はいまでもアジアへの旅をする前に、今度は生きて帰れるかどうか、漠然と自問する」。日本よりずっと治安のいいシンガポールへ旅する場合でもそう自問するという。1980年代半ば頃までのアジアの一人旅はある種の<覚悟>が要ったとも。フィリピンや韓国、中国への旅には<政治的覚悟>が、インドやネパールへには<哲学的・思惟的覚悟>が。しかし「ここ十数年のあいだに、日本の若い世代のアジアへの向き合い方は、ドラスティックに変わった」。「私の記述に理解してくださるのは、おそらく30代末、40代の読者であろう」。氏は前時代的な<覚悟>なぞ関係なしに出かけていく若者の出現をおおむね歓迎しているのだが、しかし「20代、30代の日本人によるアジア旅行記を読んで気づくのは、事前の知識をほとんど持ち合わせず、ただただ自分の感性に頼った旅の仕方」になっていると指摘する。「従来のアジア関連書にはない独自性」が旅行記には求められるんじゃないかと。「そもそもそういった本(アジア関連書)を彼らはほとんど読んでいないのではないか」。そして、「自己の感性への過信と、それと表裏一体のアジアに対する無知が、新たなアジアへの蔑視を生みつつあるのではないかと危ぶむ」と記す。

 野村氏の主張には、(<新たなアジアへの蔑視>というのは少し留保しておきたい気持ちがないではないけれど)、おおいに共感する部分があった。(私自身、すでにおっさんの年齢にさしかかっているということを確認させられたことは寂しい)。たしかに若い人たちのアジア旅行記は<自己の感性への過信>とやらにあふれているなあという印象をもつ。あんただけの観察・視点じゃないよと半畳を入れたくなったり、それちょっと不勉強じゃないのと感想をもつ場合もあるなあ。
 もう堪忍してちょうだいといいたくなるほどのめまぐるしい書籍の氾濫の中から、これぞという1冊に巡り会うにはかなりの困難な読書環境になってきた。しかも私、少々疲れ気味。もうひとつ、経済的にも弱っているし…。そこで新刊をおっかけず、懐かしの、骨太アジア関連書を掘り起こしていくコーナーを設置した次第であります。今後のおつきあいをよろしくお願いします。
(上記引用要約させていただいた野村進氏の記事は『アジアの歩き方』(講談社現代新書・2001年11月)に収録されています)
旧著探訪(1)

 不思議のフィリピン 
-非近代社会の心理と行動- ■中川剛著・NHKブックス・1986年■
【ふたたび前口上】マルコスからアキノ大統領への政変当時(86年)は、今改めて振り返れば、空前のフィリピン・ブームであったと言えるかもしれない。この時期、フィリピン関連の書物が数多く出版された。そんななかとびきり面白かった1冊。後で気づいたことなのだけれど、私はこの著者に学生時代行政法の講義を受けたことがある。「受けた」というより初回の講義に顔を出しただけの不良学生でそのあとは一度も出席していない。故に講義内容も先生のお顔も記憶にない。卒業してずいぶんたってからこの本に巡り会い、はじめてこういう先生だったのかと知った次第。もう少しまじめにしておけばよかったと悔やまれるのであります。
 ウタン・ナ・ロォオブ(恩)、ヒヤ(恥)、パキキサマ(愛想)、デリカデサ(遠慮)などのキーワードを通してフィリピン人の行動規範や心性にメスを入れていく。それらキーワードの多くは、日本人には馴染み深い言葉であり、理解もしやすい。たとえば「恥」の文化なんて日本人特有のものかと思っていたら、あにはからんや、フィリピン人のお家芸であったりして、日本人と多くの共通性を見つけることができる。ウタン・ナ・ロォオブの気持ちを忘れることはヒヤであり、デリカデサに欠け、あげくはワラン・ヒヤ(恥知らず)と罵られる。この規範回路は少し昔の日本ではお馴染みのものだ。
 副題に「非近代社会の心理と行動」とある「非近代社会」とは必ずしも「後進性」という否定的な意味ではない。突き詰めれば、フィリピン独自の歴史文化による社会ということになる。そして、その「非近代」には「意外な豊かさ」が詰まっていた。明治以来の「近代化」と「伝統」という二つの相克を経験し、そして現代のポスト・モダンを生きねばならない私たちに向けて示唆に富んだ概念でもある。
 著者は言う。「非近代の知恵を自覚することによって近代の教義を相対化するのが、アジアでは納得のいく行き方である」と。(か)2002.1.14
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