■第9回■■メメント・モリ


文春新書

 メメント・モリ。ラテン語で「死を想え」という警世の句であるらしいが、永遠に今の命が続くような錯覚と願望のもとに私は傲慢な日々を恥ずかしげもなく送っている。メメント・モリにはほど遠い毎日の暮らしぶりだ。
 そんなことをしおらしく考えたのは、藤原新也の一連の著作に接したからではなく、もっと直截的な『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』(頼藤和寛・文春新書)という本を手にしたからだ。
 冷蔵庫の食料品の賞味期限を見て、自分がその期限以降も生きておられるかどうかを考え、店先の鮮魚コーナーの活けエビ活けカニよりは(彼らはたぶん今夜中には焼かれたり蒸されたりするだろうから)生きておられるだろうと優越感に浸る。車や電池の耐久性は気にしなくなったが、街を歩く老人に敗北感を覚え、<わたしがいなくなってからもここにあるはずのこのプラスチック製の粗品>のような身の回りのモノが自分の死後も何もなかったかのように存在し続けることへのやりきれなさを感じる。……差し迫った死をまえにメメント・モリに生きるとは、こういった細部においても向き合っていかなければならない。
 <現実と願望を混同したくない。わたしは「認識の鬼」でありたい>、そしてその<認識はすべからく禁欲的でなかればならない>という著者は<来年まで生きている確率は八十パーセント、来年一杯もつ可能性は五十パーセント、三年後も生きている公算はほぼ三十パーセント>を言い聞かせる。そんな著者でも雑誌の年間定期購読を契約してしまう。<心の奥底で「自分が死んでしまう」という事態を本気で想定したり実感したりすることは、実はたいへんむつかしいことなのだ>。
 私が傲慢な日々を送ってしまうのは当然といえば当然なのかもしれない。
 残された時間を濃密な生で埋めること、いのちの躍動感を享受すること。しかし「死」をマイナスのものとして捉えない。<生きていることと死んでいることとの差は、われわれがうかつにも思い込んでいるほど大きくはない>という著者の哲学は、前著『人みな骨になるならば』(時事通信社)から脈々と受け継がれ首尾一貫している。輪廻転生もない、死後の世界もない。それが非科学的だからという理由からではなく「死」という観念を貶めてしまうから排除されねばならない。「死」はブラックホールのようなものであらねばならない。それゆえに「死」がすべてを途絶えさせる断崖絶壁でありうるという決定的な存在価値を「生」にたいしてもつのだ。言葉が悪いが、この期に及んでも…貫かれる著者の信念に、私は深く感動した。
 本書の刊行を眼にすることなく著者は亡くなった。著者の友人から聞いた後日談。「亡くなった数日後、訃報のはがきが届いたんだけれど、これが本人からのものでね。日付欄をブランクにしてあらかじめパソコンで打ち出してあったようでね、奥さんに書き入れて投函するよう指示してあったみたい。…年賀状みたいなもんですな」(平七丸)

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