ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が刊行された1719年(享保4)、奇しくもその年、遠州荒井(静岡県新居町)の船が九十九里浜沖で遭難し、その後漂流を続け、無人島に漂着、日本版ロビンソン・クルーソーの物語がうまれている。
 その無人島は、今の鳥島といわれている。八丈島から南下すること、約300キロ。火山島である。一時、気象観測所が設けられたことがあったが、火山噴火の危険があるため撤収となり、現在も無人島である。食物も水もない小さな島である。
 もちろん、遠州船が漂着した享保4年当時も、水もなく、ほとんど草木もない、岩ばかりの島であった。漂着者は12人。さしあたりの食料は岩礁にのりあげた船から運んだが、それもやがて尽きてしまった。しかし、ここは「鳥島」というだけあって、岩肌を隠してしまうほどに何千羽何万羽の鳥が群がっていた。アホウドリの棲息地なのである。翼を広げると2メートルにもおよぶ巨大な鳥で、かれらは「大鳥」と呼んだ。近づいても人間を恐れるふうもなく、逃げることもなかったので素手で難なく捕えた、とある。主食となった。
 そんなある日、無人の船が流れ着く。その乗り捨て船には、米60俵ばかりがあった。その中にモミ米が1俵あったので、それを蒔き、以後毎年何俵かの米の収穫が可能となった。
 そして、20年の時が流れて(──と簡単に20年と書いてしまったが、絶海孤島に閉じこめられた想像を絶する壮絶な20年である。その間、12人のうち9人が亡くなった)1739年、新たな漂流者が流れ着く。江戸堀江町の17人である。遠州船のものがかれらに「オレたちは日本人だ」と声をかけると悲鳴をあげて逃げてしまった。無人島だと思っていたところに人がいたという驚きからではない。かれらの風体の異様さだ。「二十ヶ年餘亂びん長髪にて(略)潮にて顔色は赤黒く黄ろく、眼中光り、誠に鬼とも可存、其身には鳥の毛まとひ(略)」(「遠州船無人島物語」、石井研堂編校訂『漂流奇談全集』所収、博文館、1908年)とある。とても日本人とは思えなかった……、いやとても人間には見えなかったのだろう。
 江戸堀江町の船も大破しており航海不能であったが、幸運にも伝馬船は助かった。順風を待って、総勢20人はこの伝馬船で鳥島を脱出。運を天にまかせての船出であったが幸いにして3日後、八丈島にぶじ辿り着いた──という物語である。
 この島を舞台にもうひとつ有名なロビンソン・クルーソーの物語がある。
 吉村昭著『漂流』(新潮文庫、1980年)という小説にもなっているし、また映画化された(森谷司郎監督、1981年)のでご存じの方も多いだろう。土佐の生まれ、長平の物語である。
 ときは、1785年(天明5)、遠州船が漂着してから70年近くのちのことである。藩米をおろして空船なったところへ襲いかかった大西風で破船、長平たち4人は鳥島に漂着する。
 この物語の凄いところは、発火器を難船のさい失っていたので、火のない原始生活を3年間、生き抜いたことである。とくに長平は仲間の3人が病死したあとの1年半をたったひとりで生き抜いた。魚を生で食らい、鳥は干物にした。何を思い、何をよすがに生きたのか。常人の想像も及ばない極限の孤独と絶望にのたうちまわったことだろう。発狂しなかったことが不思議なくらいだ。
 そして、長平が漂着して3年後に肥前国の船がこの鳥島に流れ着く。さらに2年後には薩摩国の船が漂着──。  ちなみにこの鳥島には多くの漂流者が流れ着いている。たとえば、先に述べた遠州船とこの長平の漂着までのあいだに、まず1755年に和泉国の船が流れ着いている。在島4年のあいだ、5人のうち2人が死んだ。そして、そこへ同じ和泉国の船がまたもや漂着する。この船に生き残った2人は助けられ、今まさに出航せんとする間ぎわ、今度は土佐国の船がやって来る。かれらも一緒に助けられ、めでたく鳥島脱出となった。来るのが1日遅れていたら、いや1時間遅れていたら、土佐国の漂流者たちにも長平と同じ運命に翻弄されたことだろう。ほかにもこの鳥島には、1841年(天保12)、あの「ジョン万次郎」も「小便を手に溜め、飲みて渇を凌ぎしが、それとても飲物少ければ、小便も至って少くなりし」(「漂流万次郎帰朝談」、石井研堂編『異国漂流奇譚集』所収、新人物往来社、1971年)と苦労しながら5カ月間そこで生活している。かれはこの島に海ガメの調査に来た米国の捕鯨船に助け出された。

 さて、土佐国の長平の物語である。
 薩摩国の船が漂着してから約8年間、総勢16人の共同生活であった。長平にとってひとりぼっちの生活から年月を経るごとに仲間が増えていったことで、すこしは孤独は癒やされ絶望は相対化されたであろうか……。
 のち2人が病死。14人で3年がかりで小船をつくった。船をつくるにも、気が遠くなるような苦労話が伝えられている。錨から釘をつくるため、ますはフイゴをつくることから始まった。流木を利用した船板の隙間には、貝殻を焼いて石灰をつくり、それを塗り込んだ。「ぐゐみ」という灌木の樹皮を編んで帆布をつくった。船づくりには全員が素人であったが、驚くべき忍耐と知恵を結集してつくりあげたのである。
 1797年(寛政9)、波まかせ、風まかせの航海であったが、5日後に幸運にも青ヶ島にたどり着き、助けられた──。

 数ある漂流記のうち、ほとんどが江戸期のものである。これは、幕府がとった鎖国政策と、当時の急激な国内経済の発展が大きく影響しているといわれる。つまり、大消費都市の江戸と大商業都市の大坂間の物流の激増により、経済的効率的な海運が盛んになるわけであるが、残念なことに鎖国政策によって航海術のレベルが著しく低下してしまっていた。鎖国以前は天測航法技術があったにもかかわらず、それ以降は陸上の目標物を頼りにしながら船を進める地乗り(山見航法)に後退している。いったん暴風に巻き込まれ、陸から遠く離されてしまうと、もはや船位がわからなくなってしまった。多くの漂流者たちはおみくじを引いて進むべき方向を占ったり、嵐の最中、帆柱を切り捨てるべきか否かを占ったりしている(帆柱にあたる風で流されるのを恐れて、当時切り捨てることが多かった。そのため天候回復後は航海不能となり、残された道はただ一つ、漂流であった)。
 司馬遼太郎は「甲板」というものに着目して、大航海時代の幕を切って落としたポルトガルでの旅先で「甲板はいつ、たれによって考案されたのでしょう」(『南蛮のみち』朝日新聞社、1984年)と問うている。『菜の花の沖』(文藝春秋、1982年)では主人公の嘉兵衛に「日本の船は、つらい」と語らせる。「かつて長崎で見たオランダ船なら、甲板というものがあり、船全体が水密性の高い箱枕のようになっている。傾いでも容易に水は入らない。それにひきかえ、日本の船はお椀であった。(略)傾げば水が入った」と。
 ルソン、安南、カンボジア、シャムなどの南洋諸国に向けて、遠洋航海術を駆使して朱印船が隆盛を極めた時代のことはとうに忘れ去られ、ただひたすら神仏の加護を祈り、神のお告げを頼りに心もとない航海をしていた。もちろん、航海術や船舶の構造だけが原因ではない。なによりも日本をとりまく自然環境が「漂流記」誕生のいちばんの原因であった。
 一つに、当時の船乗りたちが「大西風」といって恐れた冬の北西季節風である。不幸な巡り合わせにも船の往来が最も盛んになるとき、つまり新米の収穫が終わり、それを江戸へ運ぶ年末年始がこの季節風の最盛期にあたる。それゆえ、破船の多くは圧倒的に晩秋から冬に集中している。
 そして、日本列島周辺の海流である。時速5ノット(約10キロ)になることもある黒潮。これにのせられると北太平洋上の千島、カムチャッカあたりにまで押し流される。風の加減で南側へ押しやられると、黒潮反流の流れにのり、小笠原諸島方面へ。さらに南方へやられると、北赤道海流にのって東南アジア方面を漂うことになる。いずれにしろ、これらの海流は日本人にとっては離岸流となり、悲惨な漂流を生むこととなった。

『船長日記』(「督乗丸船長日記」、前出『異国漂流奇譚集』所収)というものがある。その当時、ギネスブックがあれば確実に認定されていたと思うが、世界最長海上漂流者の物語である。
 尾州名古屋の督乗丸(14人)は1813年(文化10)、江戸からの帰途、御前崎の沖合で遭難した。その後漂流を続け、ロサンゼルス南西沖でロンドンの船に助けられるまで、なんと484日間、海上をさまよった。その体験を督乗丸船長の重吉が語ったものが 『船長日記』である。
 幸いにも、米が5斗入6俵、豆が700俵あったので、豆を煎り粉にして、それに米を少しずつ混ぜて食料にした。水は1人あたり3升5合しかなかったので、当時の漂流者がしたようにランビキ(蘭引)といわれる蒸留器をつくった。「先ず大釜へ塩水を汲み込て煮立て、大きなる飯びつの底へ穴をあけ、管をさしこみ、釜の上に覆い、その上へ(冷却用の海水を入れた)鍋をつり下げ、件の管よりあがる湯気、鍋の底へ当りてしたたり落ちるように仕掛けて水を取る」装置である。1日に7、8升の真水が取れたそうであるが、くべる薪には難渋したことだろう。可燃物はことごとく燃やし尽くし、ついには船のあちこちを打ち破ってそれを燃やしている。
 ともすれば失意のどん底で自暴自棄になる乗組員たちに対し、船長の重吉は「縄にて大なる珠数の形」をこしらえ、気を紛らわすべく一同車座になって百万遍の念仏を唱えさせた。唱えないものには食料を与えないという掟をつくったりした。また重吉は、泣き出すものに対して声を荒げて叱り、ときには慰め、ときには激励し勇気づけた。このような重吉の船長としての不断の努力とリーダーシップが、この長期漂流を支えた。
 ところは変わり、フランスのお話。重吉の漂流と同じ頃、フランス海軍のメデュース号がアフリカ西岸沖で座礁した。147人が筏とボートで脱出したが、救助されたとき、生存者はわずか15人であった。2週間たらずの漂流のあいだに132人が死んでしまったのである。充分な水、充分な食料があったにもかかわらず、口減らしに互いが殺し合った。ロマン派の画家テオドール・ジェリコーにこの事件を題材に描いた『メデュース号の筏』という作品がある。

メデュース号の筏

筏の上でひしめき合う生存者たちの下に折り重なるように幾体もの死体が投げ出されている。生と死が狭い筏の上でせめぎあい、かれらの狂気と邪悪と、異臭と死臭が、こちらまで漂ってきそうな強烈な絵である。指揮官ショマレーは筏の連中を置き去りにして、ボートで脱出して救出された。漂流という異常事態で、強力なリーダーシップの不在がいかなる悲劇的な結果を招来するか、重吉とショマレーのこの二つの対照的な事件は雄弁に物語ってくれる。

 最後に、楽しいエピソードのある漂流記を紹介してこの稿を終わりにしたい。
 1756年(宝暦6)、遭難した津軽船は今の韓国の江陵へ漂着する。そこで漂流者たちは大歓待されるのである。どら鳴り物入りの行列で護送され、到着したところでは、豚肉、牛肉のご馳走に始まり、踊りに軽捷のアトラクション、笛、太鼓、どら、鉦、胡弓の囃子に合わせて美しい女性がくるりくるりと宙返り。あるいは角力をしたり、これは漂流者たちが勝ってしまうと相手は大いに立腹したそうで機嫌を損なわないよう負けるようにしたらしいが、ともあれ飲めや歌えの大宴会だった。のちに漂流者たちは宗対島守に引き渡され、日本にぶじ戻ることができた。
 この漂流記は前出の『異国漂流奇譚集』に「津軽船御馳走談」というタイトルで紹介されている。
 編者は書いている。「僅か四人の漂客を護送するに、どら鳴り物入り数十人の行列や引船を以てし、或いは角力舞踏軽業等を観せて漂客の無聊を慰む。太平の象溢れて詩趣あり、現時、世界の何れの端にても、果たして斯る安楽郷を求め得べきや、疑わし」と。
(か)
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