「インド」でなければならない理由はない

 本部隆一


 カルカッタの鉄道予約オフィスで、同じフライトに乗り合わせていたらしい成金ドラ息子・ドラ娘風情の四人組が助けを求めてきた。彼らの懐具合はかなり豊かな様子だったが、語学力がお粗末で、なにを尋ねられてもキョトンとしているだけ。よくこれでインド旅行する気になったものだと驚き、あきれもしたが、本人たちは気楽にかまえていた。困ったときには日本人を見つけて手助けを求めればなんとかなるだろうというわけだ。
 私の旅も終わりに近づき、エア・インディアのデリー・オフィスを訪ねてみると、その四人組が疲労困憊の様子でオフィスの片隅に座り込んでいる。なにがあったのか、野次馬的な興味がわき、昼食に誘うと、女の子ふたりはついてきたが、男の子ふたりは口を開くのも大儀そうにうずくまったままだった。女性の方がたくましいんだな。
 話を聞くまでもなく、大方の察しはついたが、彼らのインド旅行は豊かな懐具合と貧しい語学力に徹底的につけ込まれたハードなものになったようだ。カルカッタでは羨ましくなるほどのTCとドルを持っていたのが、再会した時点ではルピーが少し残っているだけ。土産物もほとんど買っていないという。どうも先方のいいなりの金額を気前よく支払っていた様子で、一例をあげると1ルピーからせいぜい2ルピーが相場のベナレス駅からガートまでのサイクル・リキシャに「1人1ドル」請求されていいなりに支払ったという。相場の10倍、20倍という金の遣い方をしているのだからすっからかんになるのも無理はないのに、お人好しというかバカというか、旅で出会ったがめついインド人たちを恨む気持ちはなく、「みんなとても親切だった」という。気前よく札束をバラまいているのだから愛想良くもなるだろうが、ここまでくると「世間知らず」では済まされないような気がする。
 デリーまで来て、やっと日本に戻ることができると思ったら、搭乗者名簿に名前がない。いささか信じられない話だが、復路が「RQ」のままで彼女たちのチケットは発券されていた。カルカッタで気づいていれば打つ手もあっただろうが手遅れだ。空席のある次のジャパン・フライトは1週間後になるが、手持ちのお金は底をついている。それよりも、男の子ふたりがひどく憔悴している。助けを求められてもどうしようもなかった。空港のカウンターで食い下がるしかないだろうとアドバイスしてその場は別れた。
 「窮すれば通じる」というがその通りで、空港に行ってみると、彼女たちはエア・インディアの係員にカタコトの英語で懸命に食い下がっていた。そのかいあってか、搭乗時刻間際にようやく座席を2席だけ確保することができた。憔悴している男の子を先に帰国させるべきだと思ったが、そのフライトには女の子ふたりが乗り込んだ。その後、残された男の子がどうなったのか私にはわからないが、のたれ死にしたという話も聞かない。いい「社会勉強」の機会になっただろうか。1984年のお話。
 私がはじめてインドを旅した1978年頃は半額に値切ることがマニュアルだったが、敵もさるもので「日本人は最初の値段の半額になれば納得する」のだから、たちまち適正価格の4倍・5倍の金額をふっかけてくるようになった。80年代のインド旅行では、このような値段の交渉で疲れてしまった方も少なくないはずだ。それにしても1ルピーが1ドルとは!
 1978年当時1ルピー35円だったのが、現在では4円を割っている。一般庶民の生活レベルで物価上昇がこの15年間で2倍から3倍程度ということを考えると、いまやインドの物価水準は私たちには驚くほど安い(ただし、高級ホテルなどは例外で、料金は欧米並かそれ以上になっている)。滅茶苦茶な金額をふっかけられることも少なくなった。「まあ、それぐらいはしゃあないなあ」という程度の金額を提示する。延々と値段の交渉をしてまで欲しいものもなくなってきた。
 インドでは、もう1984年に出会った四人組のようなハードな体験はしたくてもできそうにない。「貧乏旅行」「社会勉強」を気取るならインド以外のところを目指すべきだ。くどいけれども「インド」でなければならない理由はない。

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