『柏倉通信』カシャグラ・リポート……No.12
我流・田舎の暮らし方
東京の四ッ谷から山形の田舎にやって来て三年目を迎えた。三年目にして畑作りに本腰が入り田舎ぐらしもやっと本格派になってきた。
田舎物件捜しに半年、四苦八苦してようやく家が見つかれば今度は買った家の補修に明け暮れて二年、その一方で田舎の付き合いが始まって村の風習を実体験。我が身がこんなに多方面に動くとは、また、動かされるとは思ってもみなかった。
東京に長い間巣食っていた私は、いや、こう言ったら何かと問題はあろうが、東京に流行するうわべばかりの文化にはほとほと愛想を尽かしていた。何でもいい、実態のある確かな「もの」が掴みたかった。東京にいるとそいつが逃げて行く。
そんな思いが頂点に達した時に四ッ谷のビルの一室を引き払い田舎に飛び出した訳で、そんな私にはシャマガタの山里は別天地だった。
日本の田舎は因習でがんじがらめに縛られていて暮らしにくいと言うのだが、私は田舎では余所者だからその縛られ方もルーズだった。余所者ではあったが祭りには必ず招待され、隣近所の五人組が行う冠婚葬祭も訳が分からぬままに手伝いをした。ここは過疎が押し寄せている村だが人々の結束は固い。だが村は私のような外来者を拒絶しなかった。
そんなものだからあちこちで「カシャグラは良い!」と言って歩いた。そうしたら「なんでこんな田舎が良いものか、変わり者め」という言葉が飛び交い、初めはうさん臭いやつだと見られたようだ。
私は長くスリランカに縁があるものだから山形大のスリランカ留学生がここへ訪ねて来たりして、変な外国人と付き合う奴が村にやって来たものだとばかり好奇の目が向けられたこともあった。
そうこうするうちに村の中堅処が夫婦同伴で我が家を訪ねて来たり……。また、寄り合いに顔を出しているうちに「村の昔を知りたいなら郷土史会に入れ」と誘いを受けて、うるさ方の長老が連座する席に呼んでいただくようになったり……。そこで縄文の弓矢生活の昔語りやカシャグラにいたという先住民・幻の越王族の話を聞かされる事になったり……。かと思えばマッカーサーの農地開放で田舎のカースト構造が一変し、天地が動転する程に村が大騒ぎした事を知らされたり……。そうした出来事が等身大で目前に現れる。
物見高いは人の常。こちらが物見高ければあちらも物見高くなるもので、その時に互いが覗き合い声を掛け合うのを厭わなければ村の暮らしは別天地、桃源郷だ。東京での料理店主としての私の暮らしにはなかった地に根を張る生き方というものが田舎にはある。
その根を張って大地に生きる村の人からスリランカ料理の講習会を開いてくれないだろうかという誘いを頂いている。この秋の村祭りのイベントに加えてみたいと言うのだ。
そいつは結構。しかし婦人にばかり教えるのは嫌だ、男も半分来てほしい……とこちらの要望を出しておいた。何せ土器にスパイスと椰子のミルクを入れて煮るだけの料理だ。極めて原始的。伊達や酔興がないと退屈する。エスプリってやつが秘訣の料理だ。
実は種を明かせば我流の田舎暮らしの原点がそこにある。
伊達や酔興の生き方を都会で気取っていたのは昔の話。田舎暮らしは厳しいのだと『北の国から』というドラマが涙ながらに主張していた時代もあったが、それも今は昔。変わる変わるよ時代は変わる。悠々自適の田舎暮らしは今という時代なら誰もが楽しめる。
もっとも田舎暮らしは経済的には破綻している。もともと金が掛からない田舎暮らしだけど、それでも家計は成り立たない。田舎の人がこの素晴らしい故郷を捨てるのは田舎に付きまとう金欠が第一の理由だ。
田舎へきて一番不思議だったのは田舎に住む若い人が田舎の暮らし方を何も知らないという事だった。田舎暮らしの楽しみ方とその為の知恵は彼らの親の代で淘汰した。田舎を楽しむ知恵は三世代前の人々に辛うじて残されているだけだ。
私の田舎暮らしの先生は若い時を山の中で暮らした九十を超えるヨシエばあちゃんだ。畑の作り方も郷土料理のこしらえ方も、実際に鍬を取り鍋を抱えて教えてくれる。
ヨシエばあちゃんは口癖のように言う……「出来るところまでやれ」と。残りは明日に回せばいい。出来なければそれでもいい……なんて楽なライフ・スタイルだろう。
柏倉通信は今回が最終回。でもこの晩秋にはスリランカ料理の講習会をカシャグラでやりますので興味のある方はこの山里までお出かけください。今、畑で育てている蕎麦とエゴマも実る頃ですし…。ありがとうございました。
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