『柏倉通信』リポート……No.9
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  30パーセントの魔術 

 陽が沈んで山里が暗くなりかけた頃だった。
 「旦那さん、居だかあ」
 玄関の戸が開く音がして、そう呼ぶ声がした。寺山の爺っちゃんだった。
 「山からワラワラ降っで来て、車を道の側溝さ落どしました。揚げるの手伝ってもらえませんか。ここから、一寸、先の処です」 
 急いで山から降りて来てタイヤを側溝に落としたというのだ。
 寺山の爺っちゃんの寺山というのは屋号だ。爺っちゃんの本当の姓ではない。爺っちゃんが住んでいた山には千年の昔、柏蔵院という寺が建っていた。それで、爺っちゃんは「寺山」という屋号で呼ばれているわけだ。
 先代のときから山の中に暮らしていたが、大きくなった息子のことを考えると山の暮らしは不便にすぎるというので、山里のカシャグラに降りて来た。だから、爺っちゃんは、今、山里に家を構えていて、同時に、山の中にも家と広大な畑を持っている。そうして、山の中と山里の二つの家を往復する二重生活を二十年以上も続けている。
 山菜を取っていて遅くなり、暗くなったので慌てて山を降りた。それがいけなかった。急いてハンドル切って軽トラックを脱輪させてしまった、と爺っちゃんは何度も反省していた。狭くてクネクネした農道脇には、まるでそれが車を落とすための罠であると言わんばかりに、軽トラックの車輪がピッタリとはまる幅でコンクリートの側溝を仕掛けてくれたものだから、ハンドルさばきに若干鷹揚な村の爺っちゃん達はその溝によく車輪を落とす。老いに優しい…なんて中々ないもんだ。
 いや、寺山の爺っちゃん、俺は車揚げの名人だ。カシャグラに来てから車揚げを二度経験している。別の爺っちゃんたちが落としたやつを、二回とも、ちゃんと引き上げたのだから。
 愛車の中古トゥデイにロープと厚板と短かな柱を積んで事故現場へ急行して、爺っちゃんの軽トラを引き揚げた。星の降る夜だった。甘い山風が吹いていた。エンジンを噴かした軽トラが溝から揚がるとき、ヘッド・ライトの一条の光が空に飛んで、流れる霧の細かな粒を一瞬、白く照らした。車はコンクリートの溝の罠から外されるとき、必ずそうしてライトを天に向けて夜空を照らすのだった。
 「ありがとう様。助かりました」
 爺っちゃんは何度も礼を言って、家に車を向けた。やれやれと私も我が家へ戻ったら、直ぐに爺っちゃんが当家にやってきて、 
 「先っきは、ありがと様」
と、また礼を言う。そして、両手に抱えて来たワラビをドサッと玄関に置いた。ワラビを一キロづつ束にして糸で巻いた奴が五つ。
 「これ食べてけらっしゃい。アグも持って来ました」
 「爺っちゃん、これ、今日、山で取って来たやつじゃないのか? せっかく取って来たものを…売り物でしょ、駄目だよ、貰えないよ」
 「かまわないです。私の山さ、まだ、一杯あっから。ワラビの漬け方知ってたか?」
 爺っちゃんがそう言った時、
 「知ってる、知ってる」と、調子良く横から出て来たのは相棒だった。ワラビの山に驚いている私を退けて、
 「知ってるけど、よく知らない。おじちゃん教えて」と、わけの分からない言い訳をしながらワラビ漬けの秘法をフィールド・ワークする気でいる。廊下に山と積まれた新鮮で太いワラビに目が眩んでいるみたいだった。
 「樽さワラビを入れて、アグ入れて、塩入れて。そうしてワラビを積み重ねて重石置いて、水が上がったら、それでいいんです。出来上がり。正月まででも食えますよ」 
「わかった。でも、爺っちゃん、塩はどの位いれるの?」 
 「三○パーセント」
 「ええ……?」
 「少なければ、漬からない。多ければ塩が無駄になる」
 「へええ……」
 「アグ入れないと色がきれいに仕上がりませんよ」
 「へええ……」と相棒の口は開いたままふさがらない。
 アグというのはシャマガタの方言で「灰」のことをいう。灰が食品保存に不可欠の材料だったなんて、今日の今日まで知らなかった。
 「へええ……三○パーセントなの?」
 「アグの量ではないですよ。塩ですよ」 
 塩ならお宅にもあるだろうから持ってこなかった、と爺っちゃんは言い添えると、にこにこして帰って行った。相棒は口をあんぐりと明けたまま何かをつぶやいだ……少なければ漬からない、多ければ無駄になる……へええ、へええ。しきり感心するばかりなのだ。



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